(1)今月の万葉秀歌訪問

今月の掲載:21首・20歌碑

(1)福岡県
大宰府市
大宰府小学校下

妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに


 山上憶良(巻五・798番)
(1)大宰府小学校
(2)山上憶良の歌碑(大宰府市・大宰府小学校下)
(3)山上憶良の歌碑(大宰府市・大宰府小学校下)
(4)山上憶良の歌碑(大宰府市・大宰府小学校下)
【大宰府小学校へのアクセス】

西鉄・大宰府駅より徒歩約10分

この歌は大伴旅人(おほとものたびと)の妻の死(巻五・793番参照)に対して山上憶良が贈った追悼歌で、巻五・794の長歌に付けられた反歌のうちのひとつです。「楝(あふち)」は植物のセンダンのことです。そんな「妻が生前に見たセンダンの花はもうすぐ散ろうとしているよ。私の泣く涙はいまだ乾かないというのに」と、月日は経っても妻を失った涙の乾かない哀しさを詠った挽歌となっています。亡き妻が好んで見た花が散ってしまうことで妻との思い出のよすががひとつ消えてしまうような、そんな寂しさも感じさせる一首です。この歌も山上憶良が旅人の立場に立って詠んだ歌なので、実際にセンダンの花が旅人と妻の大伴郎女(おほとものいらつめ)の思い出の花であったのかはわかりませんが、それでもこの歌からは旅人の哀しみそのものが読み手に迫って来るような切なさが感じられる、そんな気がしまする歌です。




(2)福岡県

大宰府市

大宰府市役所玄関横
春さればまづ咲く庭の梅の花独り見つつや春日暮(はるひくら)さむ

 山上憶良(巻五・818番)
(1)大宰府市役所
(2)大宰府市役所
(3)山上憶良の歌碑(大宰府市役所前)
(4)山上憶良の歌碑(大宰府市役所前)
【大宰府市役所へのアクセス】

西鉄・五条駅下車徒歩約5分

この歌は巻五・815の歌などと同じく、大宰師の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で開かれた宴席で詠まれた「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の歌のうちのひとつです。歌碑の筑前守山上丈夫(つくしのみちのくのかみやまのうへのだいぶ)は山上憶良(やまのうへのおくら)のことです。「見つつや」の「や」はこの場合は反語の助詞なので、「ひとりで見ることなどどうして出来ようか」という意味になります。つまりは「春になるとまず最初に咲く梅の花をわたしひとりで見て春の日を過ごすなどどうして出来ようか…」といった感じで、梅の花はひとりで楽しんでも意味がないのだとの、この宴の場の皆と過ごすひとときをよろこぶ内容となっています。たしかに、どんなに可憐な花でも自分ひとりで愛でていては寂しいだけという気持ちは現代人のわれわれにもよく理解できます。この憶良の歌も、そんな後の世に筑紫歌壇と呼ばれることになる共に楽しい時間を共有できる仲間のいる喜びを素直な表現で詠った一首のように思います。




(3)福岡県

大宰府市

観世音寺

 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著(き)など暖かに見ゆ


 沙弥満誓(巻三・336番)
(1)観世音寺(大宰府市)
(2)沙弥満誓の歌碑(大宰府市・観世音寺)
(3)沙弥満誓の歌碑(大宰府市・観世音寺)
(4)沙弥満誓の歌碑(大宰府市・観世音寺)
【観世音寺へのアクセス】

西鉄・大宰府駅下車徒歩約20分
この歌は沙弥満誓(さみまんせい)が筑紫の綿のことを詠んだ一首です。沙弥満誓はもとの名は笠麿(かさのまろ)といい、朝廷に仕える笠氏出身の朝臣でしたが元明天皇の病の際に出家し沙弥満誓となりました。その後、723年に筑紫観音寺別当として大宰府に赴任したそうなので、この歌を詠んだ時点では大宰府にいたものと思われます。この歌以前の巻三・335番までの歌と、次の山上憶良(やまのうへのおくら)の巻三・337番の歌までが小野老(をののおゆ)の帰還を祝う宴の席でのものと考えるなら、その間にあるこの歌もまたその席上で詠まれたもののはずですが、大伴旅人(おほとものたびと)たちの奈良の京を懐かしんで詠んだ望郷歌の後に突然綿を詠んだ物詠歌が登場するためにこの歌の解釈は昔から多くの人を悩ませてきたようです。ただ、当時の大宰府のあった筑紫は綿の生産で有名で、綿を誉めることで筑紫もまたよい場所ですよと旅人たちを諭して慰めていると解釈すればそれほど違和感のない一首であるようには思えます。「身につけていまだ着たことはないけれど」とは、まさに筑紫の国を知り尽くしていない旅人たちのことを譬えて言っているのではないでしょうか。「みなさまは奈良の京を恋しいと嘆かれますしその気持ちは私も同じですが、明日香の宮や藤原京から奈良の京に遷都したときにも故き京が懐かしいと感じられたでしょう。おなじように大宰府のある筑紫もまた住めば京ですよ。まだ身につけたことのない筑紫のあの綿を着てごらんなさい。あんなにも暖かそうに見えることです。」との、僧侶である沙弥満誓らしい慰めと諭しの一首なのではないでしょうか。実際、沙弥満誓が諭したように大宰府での旅人たちの生活も決して悪いものではなく、旅人や憶良たちの大宰府での暮らしは後の世に筑紫歌壇(つくしかだん)と呼ばれる一種の憧れを持って語られることになる華やかさも持ち合わせていました。小野老の巻三・328番の歌からつづくこれらの一連の歌が実際にはどんな状況で詠まれたものであるのかは分かりませんが、旅人の望郷歌の後にこの歌を並べた万葉集編者の大伴家持のこころにも筑紫歌壇への憧れがあったことと思われます。「親父は大宰府での日々を鬱屈して過ごしていたようだけれど、僕から見ればあの時代の親父たちは楽しそうで輝いて見えるよ」との、そんな思いが旅人の子である家持には実際にあったようです。



(4)福岡県

大宰府市

衣掛天神

凡(おお)ならばかもかもせむを恐みと 振りたき袖を忍びてあるかも
 娘子 児島(巻六・965)

ますらをと思へるわれや水くきの 水城のうえになみだ拭はむ
大伴旅人(巻六・968番)

(1)衣掛天神(大宰府市)

(2衣掛天神(大宰府市)
(3)娘子児島・大伴旅人の歌碑(衣掛天神・姿見の池跡)
(4)娘子児島・大伴旅人の歌碑(衣掛天神・姿見の池跡)
【衣掛天神へのアクセス】

西鉄・下大利駅から徒歩約30分

大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人が、大納言に任じられて帰京する際、遊行女婦(うかれめ)・児島と詠み交わした歌です。遊行女婦とは、酒宴の席で歌や舞を披露して接待する女性を指します。都から大宰府へ赴任してきた旅人は、滞在中に愛妻を亡くし、悲しみにくれます。望郷の念や、亡くした妻への思慕を多く詠み残した旅人にとって、児島の存在はどれほどの支えであったでしょうか。
【銘文】
凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも    娘子児島
(普通の身分の方であったなら袖を振ってお別れするものを、恐れ多いので、振りたい袖を我慢しています。)
【銘文】
ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ    大納言大伴卿
(涙など流さないと思っていた私が、水城のほとりで涙を拭うことになるのだろうか。)
 二人の別れの場面で詠まれたこの歌は、旅人の出立が公的なものであり、周囲に官人がいるなかで、旅人と児島の間にある身分の隔たりが浮き彫りとなっている様子をうかがわせます。再びは逢えないかもしれないという、両者の悲しみが色濃く感じられるこの歌は『万葉集』巻6に収められています。




(5)福岡県

志賀島

国民休暇村北側
大船に小舟引き添へ潜(かず)くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやもやも


 作者不詳(巻十六・3869番) 
(1)作者不詳・万葉歌碑(志賀島)

(2)作者不詳・万葉歌碑(志賀島)
(3)作者不詳・万葉歌碑(志賀島)
(4)荒雄の碑(志賀島国民休暇村北側)
【志賀島国民休暇村へのアクセス】

JR西戸崎駅下車

休暇村送迎バスで約15分

この歌の歌意は大きな船に小舟をつなぎ、海の底まで潜っても今となっては志賀の荒雄に出会うことはないだろうと言うもので、この話には以下の背景があります。神亀(じんき)年間に、大宰府筑前国宗像郡(ちくぜんのくにむなかたのこおり)の民、宗形部津麻呂(むなかたべのつまろ)を対馬へ食料を送る船の船頭に指名しました。そこで、津麻呂は滓屋郡志賀村(かすやのこおりしかむら)の漁師荒雄を訪ねて、「ちょっとお願いしたいことがあります。聞いてもらえないでしょうか」と相談をもちかけた。荒雄は、「私はあなたと別の郡の人間ですが、長年同じ船に乗ってきました。あなたへの思いは兄弟以上、あなたのために死ぬことがあってもけっして拒みはいたしません」と答えました。津麻呂は、「大宰府の役人が私を対馬に食料を送る船の船頭に指名しました。しかし、年取って衰えた体は海路に耐えられそうにありません。それでこうして参上したのです。なんとか交代してもらえないでしょうか」と言いまsぎた。そこで荒雄は承諾して、その仕事を引き受けることになりました。肥前国松浦県(ひぜんのくにまつらのあがた)の美祢良久(みねらく)の岬から船を出し、まっすぐ対馬をめざして海を渡っていると、にわかに空が暗くなり、嵐になって雨も加わり、とうとう追い風を失い海中に沈んでしまいました。そこで妻子は母牛を慕う子牛のような思いに耐えかねて、この歌を作ったと言います。あるいは、筑前守(ちくぜんのかみ)の山上憶良臣(やまのうえのおくらおみ)が妻子の悲しみに心を動かされ、思いを述べてこの歌を作ったとも言います。「神亀」は724〜729年の期間。聖武天皇の時代。神亀三年ごろ、山上憶良は筑前守となり、神亀五年ごろ、大伴旅人は大宰帥としてこの地に赴任しました。




(6)福岡県

志賀島

志賀島国民休暇村

志賀の海人は藻刈り塩焼き暇なみ髪梳の小櫛取りも見なくに

 石川少郎
(巻三・278番)

(1)志賀島・中津宮
(2)石川少郎・万葉歌碑(志賀島国民休暇村付近)
(3)石川少郎・万葉歌碑(志賀島国民休暇村付近)
(4)万葉歌碑解説(志賀島国民休暇村付近)
【志賀島国民休暇村へのアクセス】

JR西戸崎駅下車

休暇村送迎バスで約15分

この歌は、石川少朗(いしかはのをといらつこ)が詠んだ一首です。「石川少朗」は左注によると「石川朝臣君子(いしかはのあそみきみこ)」のことで男性のようです。そんな石川君子が詠んだ一首ですが「志賀の海人のおとめは海藻を取ったり塩を焼いたりと暇がないので髪を梳く小櫛を手に取ってみることもないのだろう…」と、志賀の海人のことを詠った内容となっています。読みようによっては田舎の海人をからかった歌とも取れて解釈が分かれている一首ですが、これはやはり髪の手入れをする暇もないほどに生業に勤しむ海人を讃えている歌と解釈したほうがよいのではないかと思います。同時に、旅路で見た海人のおとめに心を寄せて詠うことで、旅の不安に動揺する自身の心を鎮めようとした歌のようにも感じられます。



(7)福岡県

志賀島

国民休暇村付近

世間を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 作者不詳
(巻十六・3862番)

(1)作者不詳・万葉歌碑(志賀島国民休暇村付近)
(2)作者不詳・万葉歌碑(志賀島国民休暇村付近)
(3)作者不詳・万葉歌碑(志賀島国民休暇村付近)
(4):作者不詳・万葉歌碑解説(志賀島国民休暇村付近)
【志賀島国民休暇村へのアクセス】

JR西戸崎駅下車

休暇村送迎バスで約15分
この歌碑は、志賀島の北端国民休暇村の南側に広がる海を一望出来る場所にあります。玄界灘を望む丘の上に建てられています。奈良時代に、大宰府が対馬に食料を送る船の舵取りとなった宗形部津麻呂に代わって出航し、途中の暴風雨により帰らぬ人となった志賀の荒雄にまつわる歌であり、荒雄を失った妻子の心の痛みを山上憶良が詠んだとも伝えられています。志賀の山の木をひどく切ってくれるな。荒雄ゆかりの山と、見ながら思い出しましょうとの解釈や、荒雄はきっとかえって来るだろう。
志賀の山の木が切られて様子が変わっていたら、荒雄は戸惑うに違いないから、ひどく木を伐らないでください、との解釈もあります。



(8)福岡県

嘉麻市

鴨生憶良苑

牽牛(ひこぼし)の嬬(つま)迎へ船(ぶね)漕ぎ出(づ)らし天(あま)の
川原(かはら)に霧の立てるは

 作者不詳
(巻七・1246番)

(1)作者不詳・万葉歌碑(旧蒙古塚(志賀島))
(2)作者不詳・万葉歌碑(旧蒙古塚(志賀島))

(3)作者不詳・万葉歌碑(旧蒙古塚(志賀島))
(4)作者不詳・万葉歌碑解説(旧蒙古塚(志賀島))
【旧蒙古塚へのアクセス】

博多港より船で約45分
この歌の歌意は”志賀の海人の藻塩を焼く煙は、風が強いため立ち昇らないで、横にたなびいている。”という意味です。これは藻塩焼きというかつて行われていた製塩の風景を詠んだもので、海藻を刈り集め、焼いた後の灰を海水に混ぜ、その上澄みを煮詰めて塩を得るものです。当時の志賀の自然情景がそのままに表現されています。



(9)福岡県

志賀島

志賀島保育所見南

沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻みて漕ぎ来と 聞こえ来ぬかも 

 山上憶良
(巻十六・3867番)

(1)作者不詳・万葉歌碑(志賀島保育所南側)
(2)作者不詳・万葉歌碑(志賀島保育所南側)
(3)作者不詳・万葉歌碑)(志賀島保育所南側)
(4)作者不詳・万葉歌碑解説(志賀島保育所南側)
【志賀島保育所へのアクセス】

JR西戸崎駅前よりバス

志賀島小学校前下車徒歩約3分

也良は島北端の岬を、「崎守」は国防に当たった防人のことを指します。 志賀の船乗り、荒雄(あらお)は「鴨」という名の船で、玄界灘へ出ました。しかし、荒波に襲われ、荒雄は消息を絶ってしまいました。 「也良の防人よ、鴨という名の船が帰ってきたら真っ先に知らせてくれ」 玄界灘で小舟が荒波にのまれれば、ほとんど命は助からない。それでも、わずかな希望を託して帰りを待つ人がいた。憶良の歌を通じて、1200年前の思いが、今も人々の心を打つものです。




(10)福岡県

志賀島

志賀島小学校


志賀の浦に漁りする海人家人の待ち恋ふらむに明かし釣る魚

作者不詳(巻十五・3653番)


(1)志賀島小学校
(2)作者不詳・万葉歌碑(志賀島小学校玄関横)
(3)作者不詳・万葉歌碑(志賀島小学校玄関横)
(4)作者不詳・万葉歌碑(志賀島小学校玄関横)
【志賀島小学校へのアクセス】

JR黒崎駅から徒歩10分
この歌碑は志賀島小学校内に建てられています。天平8年(736)の遣新羅使一行が、途中筑紫に滞在しているときに、故郷のことを思い悲しんで詠んだもので、志賀の浦で漁をしている海人は、家族が待っているであろうに、夜通し漁を行っている。という意味の歌です。海人は漁が終われば家に帰れるが、新羅に行かなければならない自分が、家族に会えるのはいつのことであろうかという嘆きが伝わって来ます。



(11)福岡県

志賀島

志賀島漁港

豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ

 
作者不詳(巻十二・3170番)

(1)志賀島より能古島遠望
(2)作者不詳・万葉歌碑(志賀島漁港西側)
(3)作者不詳・万葉歌碑(志賀島漁港西側)

(4)歌碑の解説
【志賀島漁港へのアクセス】

JR西戸崎駅よりバス約20分
この歌碑は志賀島南側の志賀島漁港西側に建てられています。 志賀の海人が漁に灯している漁火のように、ほのかにでも妻を見たいものだ、といった意味で、博多湾内に灯る漁火を見て、耐え難い郷愁の念を詠んだ歌だと思われます。万葉集にはこのほかにも志賀島に暮らす人々の生活を直接・間接に描いた歌がいくつか見られます。



(12)佐賀県

唐津市

万葉の里公園
海原の沖行く船を帰れとか領布(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫

 山上憶良
(巻五・874番)
(1)山上憶良・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(2)山上憶良・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(3)山上憶良・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(4)山上憶良・万葉歌碑解説

【万葉の里公園へのアクセス】

JR浜崎駅下車徒歩約3分
この歌も巻五・871番の歌などとおなじく松浦佐用姫の伝説を詠んだ一連の歌のひとつで、この巻五・874番の歌と次の巻五・875番の歌はどうやら山上憶良の作のようです。この憶良の二首の歌をもって松浦佐用姫の伝説を詠んだ一連の歌も終わるわけですが、山上憶良(やまのうへのおくら)が佐用比売の伝説を詠み込んだ巻五・868番〜巻五・870番の歌に影響を受けた大宰府の官人によってこの一連の歌群が詠まれ、それが一巡してまた最期に憶良の歌で締めるというのはなかなかに面白い構成になっています。歌の内容は「海原の沖に去り行く船に帰れと願って領布を振ったのだろうか松浦紗世姫は」と、この歌でも領布を振った佐用姫の心を想像してその哀しさに思いを馳せた内容となっています。これらの一群の歌が詠まれた背景については詳しいことはわかりませんが、松浦遊行から帰って来た大伴旅人(おほとものたびと)たちが山上憶良も交えた宴の席で憶良の歌に追和したのだとすると、その最後の返礼として憶良自身が自分の歌を披露して詠いまとめたといったところだと思われます。なんだか大宰府の人々の酔い騒ぐ宴の声まで聞こえてくるような、そんな息遣いも感じられる一連の歌です。



(13)佐賀県

唐津市

万葉の里公園

春されば吾家の里の川門には鮎子(あゆこ)さ走る君待ちがてに

 大伴旅人
(巻五・859番)

(1)大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(2)大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(3)大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(4)大伴旅人・万葉歌碑解説
【万葉の里公園へのアクセス】

JR浜崎駅下車徒歩約3分
この歌も「松浦河に遊ぶ」と題された一篇の歌群の一首で、主人公の男が娘子に贈った歌に娘子がさらに返した三首の歌のうちのひとつです。娘子の詠んだ歌となっていますが、この歌も松浦の地を訪れた大伴旅人(おほとものたびと)たちが宴の席で詠んだもので、大宰府の官人か、あるいは宴席に同席した遊女(うかれめ)などが娘子役を演じて詠んだ歌だと思われます。歌の内容は「春になればわたしが住む里の川の渡し場に鮎の子が跳ね回ります。あなたを待ちかねて。」と、男の来訪を待ちわびる自身の恋心を跳ね回る若鮎に譬えて詠った一首です。「川門(かはと)」は川などの渡し場のことですが、このような季節の若鮎の姿をありありと歌に詠み込めるのは、この歌の作者がこの地域での生活の長い人物だったからでしょうか。恋の戯れ歌の中に自然の情景をも詠み込んで、この歌もなかなかに魅力ある一首のように感じられます。



(14)佐賀県

唐津市

万葉の里公園

松浦川川の瀬早み紅の裳(も)の裾濡れて鮎か釣るらむ

 大伴旅人
(巻五・861番)

(1)大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(2)大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(3)大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(4)大伴旅人・万葉歌碑解説

【万葉の里公園へのアクセス】

JR浜崎駅下車徒歩約3分
この歌は巻五・853番以降の「松浦河に遊ぶ」と題された一篇の歌群に追加する形で詠まれた三首の歌のうちのひとつです。題詞にある「師(そち)の老(おきな)」とは大宰師の大伴旅人(おほとものたびと)のことで、この題詞は「松浦河に遊ぶ」の一篇を資料として保管する過程で山上憶良(やまのうへのおくら)が記述したもののようです。歌の内容は大伴旅人が第三者の立場から「松浦河に遊ぶ」の世界に思いを馳せて、「松浦川の川の瀬が早いので少女たちは紅の裳の裾を濡らして鮎を釣っているだろうか。」と、今もなお松浦川では少女たちが鮎釣りをしているだろうかと想像したものとなっています。いわば、われわれ万葉集の読者と同じような立場に大伴旅人が立って「松浦河に遊ぶ」の一篇を楽しみ、松浦川の娘子らを想像して詠んでいる歌でもあるのがなんとも興味深いものがあります。



(15)佐賀県

唐津市

万葉の里公園

松浦川 七瀬の淀は淀むとも 我は淀まず 君をし待たむ


 大伴旅人
(巻五・860番)

(1)大伴旅人・万葉歌碑)(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(2)大伴旅人・万葉歌碑)(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(3)大伴旅人・万葉歌碑)(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(4)大伴旅人・万葉歌碑解説

【万葉の里公園へのアクセス】

JR浜崎駅下車徒歩約3分
歌意は単純で、”松浦河の七瀬の淀は淀もうとも、私はためらわずに、君を待ち続けます”と言うものです。「七瀬」は多くの瀬、流れの浅瀬のことで、恋の歌に見られる「淀む」と言うのは逡巡して関係を中断すると言う意味があります。また「淀む」は流れのはやい川が「無常」を表すのに対して、「不変」の象徴でもあります。あちらの瀬もこちらも淀むまで、お別れしてから時間が経ったとしても、私のあなたを思う心は変わらず待ち続けますと言う表明と思われます。この場合の「君」とは男性の敬称なので、架空の仙女が自分にそう歌を返してよこしたと言う架空のシチュエイションの元での作品と思われます。「君をし」の「し」は強調の助詞で、その前の歌、「われこそ」の「こそ」に呼応するものです。




(16)佐賀県

唐津市

万葉の里公園

玉島のこの川上に家はあれど君を恥(やさ)しみ顕さずありき

 大伴旅人
(巻五・854番)

(1)大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(2))大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(3))大伴旅人・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(4))大伴旅人・万葉歌碑解説

【万葉の里公園へのアクセス】

JR浜崎駅下車徒歩約3分
この歌も「松浦河に遊ぶ」と題された一篇の歌群の一首で、先の巻五・853番の男の歌に娘子らが答えて詠んだものです。ただし、作者はおそらくは巻五・853番の歌とおなじく大伴旅人(おほとものたびと)で、ひとりでこの歌物語の主人公の男と娘子らの二役を演じて詠んでいると思われます。巻五・853番の歌で主人公の男が「川で釣りをする漁師の子だとあなたは言うけれど一目でわかってしまいます、賤しからぬ家柄の子だと」と娘子らに詠い掛けたのに対して、「玉島川のこの上流に家はありますけれど恥ずかしくてはっきりとは言えなかったのです。」と娘子たちの立場で答えています。つまりは賤しからざる家の娘であることを匂わせているわけです。まあ、この「松浦河に遊ぶ」と題された一篇の歌群は松浦の地を訪れた旅人たちが神功皇后伝説の中の物語をもとにして戯れで詠んだ連歌的な歌物語なので、娘子らの素性については謎のままで楽しむのがよいのでしょう。そもそも娘子らのどの娘と結婚の契りを交わしたのかも曖昧な戯れ歌だと思われます。



(17)佐賀県

唐津市

万葉の里公園

帯日売(たらしひめ)神の命の魚釣らすと御立たしせりし石を誰見き


 山上憶良
(巻五・869番)

(1)山上憶良・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(2))山上憶良・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(3))山上憶良・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(4)山上憶良・万葉歌碑解説

【万葉の里公園へのアクセス】

JR浜崎駅下車徒歩約3分
この歌も先の巻五・868番の歌と同じく、大伴旅人たちが松浦遊行に出かけたときに、同行できなかった山上憶良がその心情を述べて詠んだ三首の歌のうちのひとつです。「一に云はく」は憶良自身による三句目の別案です。「帯日売(たらしひめ)の命(みこと)」は神功皇后のことで、神功皇后が新羅出兵のおり(巻五・813番を参照)に玉島川の石の上に立って鮎を釣り新羅征討の成否を占ったとされる故事があります。そんな「帯日売の命が魚をお釣りになろうとしてお立ちになった石を誰が見たのでしょう」と、今ごろは旅人たちが見ているであろう玉島川の石を自分だけが見れない寂しさを詠っています。まあ、このように読むと憶良が独り残されて拗ねているようにも感じられますが、そういうポーズを取って詠うことで旅人たちのささやかな笑いを得ようとしているわけと思われます。



(18)佐賀県

唐津市

鏡山神社

松浦県佐用比売の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ


 山上憶良
(巻五・868番)

(1)山上憶良・万葉歌碑(虹の松原・万葉の里公園・唐津市)
(2)山上憶良・万葉歌碑(鏡山神社・唐津市)犬養先生揮毫
(3)山上憶良・万葉歌碑(鏡山神社・唐津市)犬養先生揮毫
(4)山上憶良・万葉歌碑解説

【鏡山神社へのアクセス】

JR虹ノ松原駅下車

車で約15分
この歌は大伴旅人たちが松浦遊行に出かけたときに、同行できなかった山上憶良がその心情を述べて詠んだ三首のうたのうちのひとつです。巻五・870番の後の左注には天平二年の七月十一日の作と書かれているので、四月の「松浦河に遊ぶ」(巻五・853番など参照)の遊行からは時間が開きすぎており、どうやら旅人たちは七月にもまた松浦に行ったと思われます。歌に先駆けて、序文の題詞があり、そこには…憶良が心よりかしこまって謹んで申し上げます。憶良は次のように聞いております。「諸国の国司や大宰府の官人は、ともに定めに従って、部下を連れて、管内の視察をする」と。わたしの胸中は思うこと多く、言葉に表現しかねます。ゆえに三首の拙い歌をもって体内の鬱積を除こうと思います。その歌は…と、このように書かれています。つまりは「諸国の国司や大宰府の官人は、ともに定めに従って、部下を連れて、管内の視察をする」という筑前国司としての仕事があるために松浦に共に行くことが出来ない鬱憤を訴えているわけです。つづけて歌では「松浦の県の佐用比売が領巾を振った山の名前だけを聞いて私は過ごすのでしょうか」と、ひとり残されて旅人たちの出掛けて行った松浦の山の名前だけを空しく聞いていなければいけない寂しさを詠っています。「領巾(ひれ)」は頭から肩に掛ける女性の装身具で、振ると念願が叶える呪力があるとされていたようです。松浦には宣化紀の佐用比売(さよひめ)がこの領巾を振って夫の大伴佐提比古(おほとものさでひこ)を追いかけて慕った領巾麾の嶺があり、この故事にちなんで憶良は旅人たちを慕う自身を暗に佐用比売に譬えてもいるわけです。(佐用比売の伝説については巻五・871番を参照下さい。)このように留守番の身でありながらその身を歌に詠うことで、ある意味では山上憶良も旅人たちの松浦遊行に参加していることになる訳ですが、仕事の都合で仲間とともに遊びに出かけられない鬱憤を歌で表現したなんとも山上憶良らしい一首です。



(19)佐賀県

唐津市

鏡山山頂

行く船を振り留みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫


 山上憶良
(巻五・875番)

(1)山上憶良・万葉歌碑(鏡山山頂・唐津市)
(2)山上憶良・万葉歌碑(鏡山山頂・唐津市)
(3山上憶良・万葉歌碑(鏡山山頂・唐津市)
(4)山上憶良・万葉歌碑(鏡山山頂・唐津市)

【鏡山へのアクセス】

JR虹ノ松原駅下車

車で約15分
この歌も巻五・871番の歌などとおなじく松浦佐用姫の伝説を詠んだ一連の歌のひとつで最期の一首です。作者はどうやら山上憶良のようです。歌の内容はこちらも先の巻五・874番と同じく「遠ざかり行く船を留めることも出来ずにどれほど恋しかったことだろうか松浦紗世姫は」と、夫の大伴佐提比古(おほとものさでひこ)の乗る船を留めようと領布を振った佐用姫の心に思いを馳せて如何ほどに恋しかったことだろうと同情する一首となっています。新羅へと出兵して行った大伴佐提比古の船を留めようと、霊力のあるとされる領布を振った松浦佐用姫でしたが伝説によるとその効果も無く夫の乗る船は遠ざかって行ったそうです。そんな佐用姫の無念の心を慰める鎮魂歌として一連の歌を締めくくったなかなかに素敵な一首です。同時に、松浦遊行に出掛けて行った大伴旅人(おほとものたびと)たちを独り寂しく見送った憶良の姿を松浦佐用姫に重ねるという、憶良らしい面白さも失わない魅力も兼ねた歌となっているように思います。



(20佐賀県

唐津市

鏡山神社

行く船を振り留みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫


 大伴旅人
(巻五・871番)

(1)鏡山山頂(唐津市)
(2)大伴旅人・万葉歌碑(鏡山山頂・唐津市)
(3大伴旅人・万葉歌碑(鏡山山頂・唐津市)
(4)大伴旅人・万葉歌碑(鏡山山頂・唐津市)

【鏡山へのアクセス】

JR虹ノ松原駅下車

車で約15分
この歌は山上憶良(やまのうへのおくら)が佐用比売の伝説を詠み込んだ先の巻五・868番〜巻五・870番の歌に影響を受けて、大宰府の官人たちが詠んだ一連の歌のうちのひとつです。歌の前の序文と、この巻五・871番の歌の作者はおそらく大宰府の長官である大伴旅人(おほともたびと)だろうと思われます。巻五・868番の歌で松浦遊行に出た大伴旅人たちに仕事の都合で独り残された山上憶良が、「松浦の県の佐用比売が領巾を振った山の名前だけを聞いて私は過ごすのでしょうか」と詠ったことから発想を広げてこれらの歌が生まれたのだと思われます。序文ではまず、「佐用比売の領巾麾の嶺伝説」についての解説が以下のようになされています。大伴佐提比古の郎子は、特別に朝廷からの命令を受けて蕃国への使いを務めた。船の準備をして出航し、次第に蒼海原へと遠ざかって行った。妾(つま)の松浦佐用比売は人の世の別れ易さを嘆いて、ふたたび夫に逢うことの難しさを嘆いた。そして高山の嶺(みね)に登って、遙かに離れ去ってゆく船を望んで、失意のあまりに肝を断ち、目の前も暗く魂の消える思いだった。そこでついに領布(ひれ)を取って振った。傍にいる者は皆、涙を流さない人はいなかった。このことによってこの山を領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)と呼ぶようになった。そこで、歌を作っていうことには…と、以降の一連の歌につづけています。「郎子(いらつこ)」は若い男子の意味で、佐用比売(さよひめ)の夫の大伴佐提比古(おほとものさでひこ)のこと。「蕃国(ばんこく)」とは朝鮮半島の新羅のことで、大伴佐提比古は朝廷の命令で新羅討伐に向かったようです。歌の内容もこの序文の伝説そのままに「遠い人を待つ松浦佐用姫が夫を恋しさに領巾を振ってから負っている山の名です」と、領巾麾の嶺の名前の由来を詠ったものとなっています。松浦遊行を欠席した憶良が自らの身の鬱憤を詠んだ巻五・868番などの歌が思わぬ広がりを見せたわけですが、和歌が独りの独詠で完結せずにつぎつぎに周りの人々へと詠い連なってゆくのは、筑紫歌壇をはじめとする奈良時代の宴の席でのひとつの特色だったようです。