(1)今月の万葉秀歌訪問

縦方向にスクロールしてご覧下さい。(28首・26歌碑)


(1)奈良県・橿原市飛鳥
天香具山
春過ぎて 夏来たるらし しろたえの 衣干したり 天の香具山

持統天皇

(巻一・28番)
(1)醍醐池東南角の持統天皇歌碑 (2)持統天皇歌碑(揮毫は万葉学者犬養孝先生)
(3)藤原京大極殿跡
(4)藤原京跡より天の香具山を望む
【醍醐池へのアクセス】

JR桜井線・畝傍駅より徒歩約20分

直ぐ前に藤原京跡が広がる
この万葉の秀歌訪問の二番バッターとしては犬養先生の揮毫による持統天皇(女帝)の有名なこの歌を選びました。藤原京の大極殿跡から道路を挟んだ北側直ぐに醍醐池があり、池の東南角にこの歌碑が建っております。歌碑は柳の根元にあり、その後ろ東南にのっぺりとした香具山が多武峯の手前に見えます。この歌に関しては、どこで詠まれたかについて、色んな議論があり、藤原宮での御製と一般的には考えられていますが、編時からすれば、藤原宮に遷都する前の飛鳥浄御原と言う説もあります。実際に初夏の時期に白たえを香具山に干して、両宮跡からどう見えるのかを実験した先生もおられる様です。(どこで詠まれ様が、この歌の値打ちは少しも揺るがないと思いますがね・・)犬養先生の揮毫による歌碑は全国各地にある様ですので、訪問が楽しみです。

(2)奈良県・桜井市
山辺の道・穴師
三輪山

三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠そふべしや

 額田王(巻一・18番)
(1)山辺の道・穴師の額田王歌碑
(2)額田王歌碑(揮毫は作家中河興一)
(3)山辺の道・穴師より三輪山を望む
(4)山辺の道・桧原神社近辺より三輪山を望む
【山辺の道・穴師へのアクセス】

JR桜井線・巻向駅より徒歩約15分

景行天皇陵東南
又も額田王の歌ですが、この歌は一つ前の巻一・17番の同じく額田王の近江国に下る時に作る長歌”甘酒(うまさけ)  三輪の山 あをによし奈良の山の 山の際(ま)にい隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに 委曲(つばら)にも  見つつ行かむをしばしばも 見放(みさ)けむ山を  情(こころ)なく  雲の 隠さふべしや”の反歌として詠まれたものである。実は額田王が天智天皇に成り代って作ったと言う説が近年有力である。長歌と共にこの反歌は額田王の巫女的・女性的な心情が発揮された感情豊かな大きな歌と言えます。

(3)奈良県明日香村

橘寺近辺
世間(よのなか)の 繁き仮廬(かりほ)に 住み住みて
      至らむ国の たづき知らずも

 作者不詳(巻十六・3850番)
(1)橘寺前の万葉歌碑
(2)歌碑(万葉学者:犬養孝先生揮毫)
(3)歌の現代訳
(4)歌碑より橘寺を望む
【橘寺へのアクセス】
近鉄南大阪線(吉野線)「橿原神宮前」駅下車。バス停「橿原神宮駅東口」より奈良交通バス「岡寺前」行に乗車し「岡橋本」で下車(バス乗車時間は12〜14分)、南の方向へ徒歩約5分。
万葉集の原文では、”右の歌二首は、河原寺の仏堂の裏に、倭琴の面に在り。(「万葉集 巻16-3849、3850」左注)”とあります。その内の3850がこの歌です。川(河)原寺の仏堂裏にあったという倭琴。六絃琴だそうですが、その表面に書き残されていたのは、この厭世の歌でした。川原寺は飛鳥寺、大官大寺とともに飛鳥の三大寺に数えられ、大伽藍を誇ったそうです。現在は、メノウの礎石と塔の跡が残ってるだけで、弘福寺は、金堂跡に建っています。この寺の南に位置するのが橘寺(たちばなでら)で、聖徳太子の生誕の地といわれ、本堂の太子堂には聖徳太子座像がまつられています。

(4)奈良県奈良市

平城宮跡

あおによし 寧楽の都は 咲く華の 薫ふがごとく 今盛りなり

 小野老(巻三・328番)
(1)二条大路の朱雀門
(2)朱雀門前の歌碑
(3)朱雀門前の歌碑
(4)西ノ京・大池からの眺望
【平常宮跡へのアクセス】


近鉄奈良駅から西大寺北口行きバス15分、平城宮跡下車すぐ 

この歌は万葉集の中でも最もポピュラーな一首である。小野老朝臣(あそみ)が天平元年(729)に大宰少弐として大宰府に着任した時、歓迎の宴席で披露した歌とされています。従って、実際の目の前の光景を詠んだものでは無く、平城京の繁栄の様子を皆に報告する為に詠んだものだと思われます。老は人生の終焉を都から遠く離れた大宰府の地で迎えています。老の死後、老の遺体は荼毘に付され、骨送使の手により、彼が愛して止むことの無かった平城京の地に帰ったとのことです。歌碑の揮毫は先代の薬師寺管主高田好胤師(故人)によるものです。




(5)奈良県

橿原市・城殿町

本薬師跡


わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故りにし里を わすれむがため


大伴旅人
(巻三・334番)

(1)史跡元薬師寺跡の石碑
(2)大伴旅人の万葉歌碑
(3)歌碑の説明板
(4)本薬師寺跡から見た香具山
【本薬師寺跡へのアクセス】

近畿日本鉄道畝傍御陵前駅→徒歩8分
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願し造営したのが本薬師寺である。しかし、完成後20年ほどで西の京に移された寺跡が、畝傍山から香久山に向かう途中にある。薬師寺の前身で、今も金堂と東西両塔の礎石が残る。当時としては斬新な伽藍(がらん)配置だったことが容易に想像できる。ちょうど橿原市の花いっぱい推進事業の一環で、取り囲む水田に植えられたホテイアオイが見ごろ。暑い盛り、清そで涼しげな薄紫色のかれんな花が心を癒やす。古びた本薬師寺跡の説明板とともに万葉歌碑がある。家持の父、旅人が大宰帥(だだいのそち)として赴任したとき、すでに60歳を過ぎていたという。都では政治の中枢を藤原氏が掌握。はるか離れた九州で旅人は何を思っていたのだろうか。歌意をひもとく。わすれ草を私は紐(ひも)につけ、身につけている。懐かしい故郷の香久山をひとときでも忘れるために…。さて、わすれ草とは現在のカンゾウを指し、万葉歌には4首詠まれている。ユリに似た鮮やかな朱色の花で、暑い真夏の日差しの下、咲き誇る。別名を忘憂草といい、中国では憂いを忘れさせてくれる草と崇められたとか。この話が日本に伝わると、当時の人は嫌なことや悲しいことなど、いわゆる憂いを忘れようと、カンゾウの花や茎葉を身につけることが流行したらしい。歌からも納得できるものである。



(6)奈良県

橿原市・木之本町

畝尾都多本神社

哭澤(なきさわ)の 神社(もり)に神酒(みわ)すゑ
 
祈祷(いの)れど わご大王(おおきみ)は
 
高日知(たかひし)らしぬ

伝 桧隈女王
(巻二・202番)

(1)畝尾都多本(うねおつたもと)神社
(2)畝尾都多本神社の境内
(3)万葉歌碑
(4)歌碑の説明
【畝尾都多本神社へのアクセス】

近鉄・大阪線:耳成駅→徒歩約15分
歌意は”泣沢の社に神酒を供えて、わが高市皇子が生き返るように祈ったのに、皇子は空高く昇られ、日の神となり天をお治めになってしまった。”と言うものです。死者の復活を哭澤の神に祈ったが、皇子は死んでしまった、というもので、この哭澤の神社とは畝尾都多本神社であるとされています。この社は『古事記』火神被殺の項に「御足方にはらばひて哭し時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本に坐して、哭澤女神と名づく。」とあります。この神は、イザナミの死の際に生まれた神であり、死の儀礼と深い関係が考えられる。具体的には、哭礼であり招魂の呪術であると思われます。


(7)奈良県

橿原市・南浦町

天香具山

山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 国見乎為者 
国原波 煙立龍 海原波 加萬目立都 怜〇(うまし)国曽 
蜻嶋 八間跡能国者

(大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 
国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ
 うまし国そ あきづ島 大和の国は)

 
 舒明天皇
(巻一・2番)

(1)藤原宮跡より天香具山を遠望
(2)天香具山山麓より二上山遠望
(3)舒明天皇の国見の万葉歌碑
(4)歌碑の説明
【天香具山へのアクセス】

JR「香久山」駅・近鉄「耳成」駅か

ら徒歩約20分
この歌は舒明天皇の有名な国見の歌です。歌意は”大和にはたくさんの山々があるけれど、とりわけ立派な山が香具山だ。その山に登って国見をすると、国土からは炊飯の煙が上がり、海上には豊漁を告げるカモメが飛び交っている。満ち足りた良い国だ、この大和の国は。”と言うものです。この歌は、秋の豊な実りを予祝する歌であると言われます。予祝というのは、物事の始まる前にあらかじめ良い結果を想定して祝ってしまうことです。いわば言霊の呪力によって良い結果を導き出そうとするのだと思います。民間でも昔から行われてきたことで、予祝行事として小正月や春に行われる風習が残る所もあるようです。国家行事としては、時と共に儀礼化して行ったものだと思いますが、この歌はその過渡期の段階を表しているのかも知れません。



(8)奈良県

高市郡・明日香村

飛鳥川
 

明日香川 しがらみ渡し 塞(せ)かませば 流るる水も
 
のどにかあらまし

  柿本人麻呂(巻二・197番)
(1)飛鳥川(明日香川)にかかる飛鳥橋
(2)飛鳥川(明日香川)
(3)柿本人麻呂の歌碑
(4)柿本人麻呂の歌碑
【明日香村へのアクセス】

近鉄京都駅から「橿原神宮前」行に

乗車。橿原神宮前駅で、吉野線「吉

野」行に乗り換え、飛鳥駅下車
歌意は”明日香川に塞(せき)を渡してとめたら、流れ去る水も皇女の遠ざかることも、ゆるやかになるにちがいないのに。”と言うものです。明日香川は大和川の1支流ですが、飛鳥時代には集落の中心部に位置していて、飛鳥人が朝な夕なに眺めたであろうと思われ、川の長い歴史と万葉集の詩情で今でも、何か普通の川とは違って感じられます。しかし、実際には明日香川は驚くほど小さな川です。万葉集に残る長短歌の数は集中の「よしの川」や「まつら川」の比ではなく、「あすかがわ」或いは「あすかのかわ」と表現された明日香川は、総数20首ちかくにもなります。川は、もちろん治水、利水の根源の川としてではなく、人々の心象の川として深く或いは清らかな川として詠われています。柿本人麿は明日香川をたくさん詠んだ歌人です。持統朝に奉仕して草壁、高市、川嶋などの諸皇子の挽歌をのこしています。



(9)奈良県

高市郡・明日香村

(大原の里)
 

大原の この市柴の いつしかと 我が思う妹に 今夜逢へるかも

志貴皇子(巻四・513番)
(1)明日香村の大原の里
(2)明日香村・大原の里の万葉歌碑
(3)志貴皇子の歌
(4)志貴皇子の歌碑
【大原の里へのアクセス】

近鉄橿原線橿原神宮前駅から奈良交

通バス飛鳥駅行き「赤かめ」(明日

香周遊)で19分、飛鳥大仏前下車

徒歩10分

志貴皇子唯一の相聞歌、優れた歌人ですが、恋の方は臆病だったのでしょうか。この歌からはそれほど感動が伝わってきません。歌意は”大原の茂った雑木林の中でいつ逢えるかと思っていたが今夜やっと逢えたよ”と言う他愛の無いものです。志貴皇子が歴史に登場するのは、679年天武天皇が皇后と6人の皇子たちを伴って吉野に行き誓いを交わした時です。(日本書紀)この6人とは、天武天皇の皇子4人(草壁、大津、高市、忍壁)と、天智天皇の皇子2人(川島、志貴)です。このとき、草壁が皇太子となったといわれますが、彼は天皇になることなく、この世を去ります。志貴皇子の立場は微妙なものだったわけですが、その警戒感からか、政治にタッチすることはほとんどなかったといわれています。大津皇子事件などから、身を守るために、目立たぬように一生を送ったのではないかと言われています。しかし、後に彼の子の白壁王が光仁天皇として即位し、以後一貫して(現代に至るまで)その子孫が天皇となるわけですから、先見の明がおありだったのでしょうか?




(10)(11)奈良県

高市郡・明日香村

(大原神社)
 
吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後
(わが里に 大雪落れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後)
天武天皇(巻二・103番)

吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
(わが岡の おかみに言ひて 落らしめし
雪のくだけし そこにちりけむ)
藤原夫人(巻二・104番)
(1)明日香村の大原神社
(2)大原神社の万葉歌碑(犬養孝先生揮毫)
(3)天武天皇の御歌
(4)藤原夫人の歌
【大原神社へのアクセス】

近鉄橿原線橿原神宮前駅から奈良交

通バス飛鳥駅行き「赤かめ」(明日

香周遊)で19分、飛鳥大仏前下車

徒歩10分

”(歌意)志こちらには大雪が降っています。大原の鄙びた里に雪が降るのはこちらよりずっと後なんでしょうね。”これは、天武天皇が藤原夫人(鎌足の娘・五百重娘(イホヘノイラツメ))に詠んだ有名な歌です。五百重娘は、天武の即位後に嫁したらしいので、天武の居る飛鳥の都から、五百重娘の居る大原に当てて詠まれたものだそうです。飛鳥と大原は、間に小さな丘を挟んでいるだけで本当はとっても近く、時間差で雪が降るような距離では到底ありません。天武がわざと「古びた鄙びた里」と詠みかけたんだとされています。(天武も結構洒落っ気のあった人のようです。)この歌に対して、五百重娘は”(歌意)我が丘の神に頼んで降らせた雪の砕け散ったものがそちらにもいったのでしょう”と、言い返しています。五百重娘は大原大刀自(オオハラノオオトジ)とも呼ばれ、丘の神に祈って雪を降らせて貰ったと言う事から、彼女は当時大原に住まう一族の女長で巫女的な役目をしていたとも言われています。




(12)奈良県・橿原市

南浦町

天香具山神社

方之 天芳山 此夕 霞千微 春立下

(ひさかたの 天の香具山 このゆふべ 
霞たなびく 春立つらしも)
 

柿本人麻呂
(巻十・1812番)

(1)藤原宮跡から天香具山遠望 (2)天香具山神社の二つの万葉歌碑
(3)柿本人麻呂の歌碑 (4)歌碑の説明文
【天香具山神社へのアクセス】

JR桜井線香久山駅から
徒歩約15分
天の香具山は、今日の夕方、霞がたなびいている。春がすがたを現したようであるよ。という意味。ひさかたの(久方の)は「天」の枕詞。季節の到来を告げる山として仰がれたようだ。香具山は大和三山の中で、唯一「天」の冠がついており、天から降ってきたとの伝承があるようだ。152m程の低山なのだが、霞がたなびく特別の存在だったのだろう。天香山神社は香具山の北麓にある神社だが、ここまで登ってもむかし舒明天皇が国見をしたような見通しのよい景観がある場所は見当たらなiい。



(13)奈良県・橿原市

南浦町

天香具山神社

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

(春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣ほしたり 天の香具山)
 

持統天皇
(巻一・28番)

(1)藤原宮跡から天香具山遠望 (2)天香具山神社
(3)持統天皇の歌碑 (4)手前人麻呂・後方持統天皇の歌碑
【天香具山神社へのアクセス】

JR桜井線香久山駅から
徒歩約15分
歌意は”春の季が終わって夏が到来した様だ。天の香具山に白い夏衣が乾してあるのを見るとそれが実感出切る”です。初夏の到来を、天の香具山の乾された白い夏衣で詠じた持統天皇の歌です。季節感は花・霞・鶏などの自然の景物で描くのが一般的であるが、この歌では”白たへの衣”と言う人事に関わる風物で描いているところに特徴がある。この歌は、晩春に夏衣が天の香具山に乾されているのを眼にして、早くも夏が来ようとしていると、季節の到来に胸を踊らせて、詠まれた歌である。徐々に推移する季節の中にあって、白い夏衣が何よりも初夏の到来を象徴していると受け取られたものと思われる。脳裏には恐らく天皇としての夏の儀礼がよぎったものと思われる。



(14)奈良県・高市郡

明日香村

飛鳥坐神社

久壬申年之乱平定以後歌 大伴卿作

皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都 孝書

(大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田居を 都となしつ )
 

大伴御行
(巻十九・4260番)

(1)飛鳥坐(あすかにいます)神社 (2)飛鳥坐(あすかにいます)神社
(3)大伴家持の歌碑(揮毫は犬養孝先生) (4)歌碑の説明文
【飛鳥坐神社へのアクセス】

近鉄橿原神宮前下車 
奈良交通バスで豊浦経由岡寺行き 飛鳥大仏前下車 東へ徒歩約3分
この万葉集の有名な歌は、壬申の乱で天武天皇が天智天皇の息子を打ち破った直後、天武天皇の将軍だった大伴御行(みゆき)が詠んだものです。歌意は”大君は神でいらっしゃるので赤駒(馬)の腹まで浸かるような田んぼを都になさったよ。”歌からわかるように壬申の乱後からの天皇は、神と仰がれる存在になりました。大伴の御幸は大伴家持の祖父(安麻呂)の兄にあたります。壬申の乱では大伴氏、特にこの御幸の兄弟で大伴吹負(ふけい)、馬来田(まぐた)は近江側から天武側にうつり、大和での戦いにおいて(乃楽山、高安城、当麻、箸墓など)大活躍をしました。



(15)奈良県・高市郡

明日香村

飛鳥


 今日可聞 明日香河乃 夕不離 川津鳴瀬乃 清有良武

(今日もかも 明日香の川の 夕さらず 河蛙鳴く瀬の

 清けかるらむ )
 

上古麻呂
(巻三・356番)

(1)飛鳥川 (2)飛鳥川・甘樫橋東の万葉歌碑
(3)上古麻呂の歌碑(揮毫は犬養孝先生) (4)歌碑の説明文
【飛鳥川へのアクセス】

近鉄橿原神宮前下車
 
奈良交通バス飛鳥下車

徒歩約5分
飛鳥川はこ奈良盆地南部を流れ、大和川中流部に注ぐ川です。奈良県高市郡明日香村の南境の畑・入谷および高市郡高取町南東境の芋ヶ峠に発し、明日香村栢森・稲淵の谷あいを北に流れ、祝戸で平地に出て奈良盆地南部を北西流、飛鳥の様々な寺や遺跡群を縫って流れ、橿原市を貫流、磯城郡田原本町・三宅町を過ぎ、川西町保田で大和川左岸に注ぎます。この川は古代より歌に沢山詠まれています。この歌の歌意は我が故郷、明日香の川の夕べになると、かはづ鳴く瀬は今日も、さやけく流れているであろうか。奈良へ都が遷されてからは ただ懐かしい明日香の里よ。作者の上古麻呂という人は渡来系の人物かといわれていますが、どういう人なのかはわかっていません。



(16)奈良県・高市郡

明日香村

飛鳥


 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは

見えずかもあらむ



元明天皇
(巻一・78番)

(1)飛鳥川 (2)飛鳥川
(3)飛鳥川・甘樫橋東の万葉歌碑 (4)万葉歌碑
【飛鳥川へのアクセス】

近鉄橿原神宮前下車
 
奈良交通バス飛鳥下車

徒歩約5分
歌意は(飛ぶ鳥の)明日香の里を残し置いていったら、あなたのいらっしゃるあのあたりは見えなくなってしまうのでしょうか・・・。”飛ぶ鳥の”は「明日香」にかかる枕詞です。「飛ぶ鳥の」がなぜ「明日香」にかかるのかはよく分かってはいません。「明日香」の地名の由来は、朝鮮語「安宿」がその語源だとか、インドのアショカ王がその語源だとか、いろいろ言われています。またはその地形に由来する後だとも・・・接頭語「ア」+「スカ」(洲処)・・・またあるいは「いすか」(アトリ科の鳥)との説もあります。この歌の作者は題詞等には明示されてはいませんが、このあたりの歌の配列から元明天皇の作と考えるのが穏当かと思われます。



(17)(18)奈良県

高市郡

明日香村

飛鳥寺

三諸(みもろ)の 神奈備山(かむなびやま)に 
五百枝(いほえ)さし しじに()ひたる (つが)の木の
 いや()ぎ接ぎに 玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく
 ありつつも やまず通はむ 明日香(あすか)の 
古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は
 山し見がほし 秋の()は 川しさやけし 朝雲に 
鶴は乱れ 夕霧に かはづはさわく 見るごとに 
()
のみし泣かゆ (いにしへ)思へば

山部赤人(巻一・324番)

明日香川 川淀(かはよど)去らず 立つ霧の 思ひ過ぐべき
 恋にあらなくに

山部赤人
(巻一・325番)

(1)飛鳥寺遠望 (2)飛鳥寺
(3)飛鳥寺の万葉歌碑 (4)万葉歌碑(揮毫は国文学者・佐佐木信綱先生)
【飛鳥寺へのアクセス】

近鉄橿原神宮前駅より

岡寺前行バス約10分

飛鳥大仏バス停下車直ぐ
これは山部赤人が飛鳥の神岳に登った時の歌である。この歌は、吉野行幸に際して、平城京をたって飛鳥にとどまった折詠われたのでないかと思われる。飛鳥は、天武、持統両天皇の故宮である。歌意は”三諸神奈備山に、たくさんの枝が伸びて、びっしり茂ったの木のように、いよいよ次々に、(玉葛)絶えることなく、いつまでも通い続けるであろう明日香の旧都は、山が高く川は雄大だ。春の日は山が見たい、秋の夜は川音がさやかだ。朝雲に鶴は乱れ飛び、夕霧に河鹿は鳴き騒ぐ。 見るたびに声を上げて泣けてくる、明日香時代のいにしえのことを思うと。”と言うものである。反歌の歌意は”明日香川の川淀去らず立ちこめる霧のように、すぐ消えてしまうような恋心ではないのだ。”と言うものである。この歌では自然の神話的な雰囲気は見られず、自然を歌うことによって、人びとの懐旧の情に訴えている様に思われる。



(19)奈良県

奈良市

手向山神社

秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遙(はる)けさ

 湯原王
(巻八・1550番)

(1)奈良・手向山神社
(2)奈良・手向山神社
(3)湯原王の歌碑(手向神社)
(4)歌碑の解説
【奈良・手向神社へのアクセス】

近鉄奈良駅下車

徒歩約30分
この歌は湯原王(ゆはらのおほきみ)が鳴く鹿を詠んだ一首です。湯原王は志貴皇子(しきのみこ)の子で、天智天皇(てんちてんわう)の孫になります。歌の内容は「秋萩の散りかう中にまぎれて妻を呼んで鳴く鹿の声の遙かなことだなあ」と、散ってゆく秋萩の花の中に入り混じって聞こえる妻を呼ぶ鹿の声を詠った一首となっています。万葉集の歌で鹿などが「妻を呼ぶ」という場合は、妻となる相手を探して鳴いているという意味になりますので、この歌の男鹿も、妻を求めて秋萩の散る山の中で鳴いているわけです。同時に、鹿の妻であるとされる萩の花(鹿がつねに萩の花に寄り添うことから)の散ってゆくのを惜しんで鳴いているのだとの気持ちも含まれているのかも知れません。そんな移りゆく秋の情景を詠って、なんともしんみりとした魅力の一首のように思います。



(20)奈良県

奈良市

東大寺大仏殿裏

わが背子(せこ)と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからまし

 光明皇后
(巻八・1658番)

(1)奈良・東大寺大仏殿裏
(2)光明皇后の歌碑
(3)光明皇后の歌碑
(4)歌碑の解説
【奈良・東大寺・大仏殿へのアクセス】

近鉄奈良駅下車

徒歩約20分
この歌は藤皇后(とうくわうごう)が聖武天皇(しやうむてんわう)に奉った御歌です。藤皇后は光明皇后(こわうみやうこわうごう)のことです。光明皇后は通称を光明子(こわうみやうし)ともいい、藤原不比等(ふぢはらのふひと)の娘です。本来、大宝律令によって皇后には皇族出身者以外はなれないと解釈されていたのですが、朝廷内を藤原家の意のままにしたい藤原四兄弟の画策などもあって光明子は初の皇族以外からの皇后となりました。ちなみに有名な長屋王の変(巻三・441番などを参照)は、律令を重んじる長屋王(ながやのおほきみ)が光明子の立后に反対したために藤原四兄弟の策謀で謀反の罪を着せられて殺害されたのだともいわれています。ただ、そんな男たちの血なまぐさい権力争いとは関係なく、あるいは犠牲になった者たちへの償いの気持ちがあったのか、光明皇后ご自身は仏教に深く帰依した慈悲深い人物でもあったようです。この歌はそんな光明皇后の詠まれた一首ですが「私の慕わしい方と見ましたらどれほどかこの降る雪もうれしいことでしょう」と、夫である聖武天皇とともに今降る雪を眺めたいとの静かな願いの一首となっています。万葉集には天武天皇と藤原夫人が雪を詠った相聞歌(巻二・103番および巻二・104番を参照)が集録されていますが、光明皇后のこの歌もおそらくそれらの歌を念頭に置いて詠まれたものでもあるのでしょう。愛する人とただ二人雪を眺めるだけの幸せ…。皇后の位にまでついてその後の朝廷にも多大な影響を誇った光明皇后でしたが、彼女が真に望んでいたものはあるいはそんなささやかな幸せだったのかも知れません。



(21)奈良県

明日香村

県立万葉文化館

片岡の この向つ峰に 椎蒔かば 今年の夏の 蔭にならむか

 作者不詳
(巻七・1099番)

(1)奈良・県立万葉文化館
(2)万葉歌碑(作者不詳(揮毫:今井凌雪氏))
(3)万葉歌碑(作者不詳(揮毫:今井凌雪氏))
(4)歌碑の解説
【県立万葉文化館へのアクセス】

近鉄橿原神宮前駅・東口から
バスで約30分万葉文化館西口下車
徒歩すぐ
こ片斜面のこの向かいの岡に、椎の実をまけば、若木の影をせめて今年の夏の日陰に見なせるだろうか、という意味です。 「 片岡 」 は地名と見るのがすなおな解釈かもしれないです。「 片岡 」は奈良県北葛城郡王寺町から香芝市の志都美地方にかけての地域とみられ、志都美神社(しづみじんじゃ)本殿裏の森がこの歌を鑑賞するにふさわしいとされています。本殿裏は椎の木を中心とした原生林で奈良県指定の天然記念物に指定されています。



(22)奈良県

明日香村

県立万葉文化館

天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も高くもがも 月夜見(つくよみ)の

持てる越水(をちみず)  い取り来て 君に奉(まつ)りて をち得てしかも

 作者不詳
(巻十三・3245番)

(1)奈良・県立万葉文化館
(2)万葉歌碑(作者不詳)
(3)万葉歌碑(作者不詳)
(4)歌碑の解説
【県立万葉文化館へのアクセス】

近鉄橿原神宮前駅・東口から
バスで約30分万葉文化館西口下車
徒歩すぐ
天に上がる梯子も もっと長かったら良いのに。 あの高い山も一層高かったらなあ。そうすればそこに上り、月の神が持っている若変水(をちみず))をこの手に取ってきて、君に奉り、若返りしてもらいたいのに。古代人は満ちては欠け、欠けては満つる月を見てその命が永遠のものであり、そこには若返りの水、すなわち変若水(をちみず)が存在すると信じていました。然しながら、月は余りにも遠くそれを得ることは不可能です。そこで、身近に取得できる場所を各地に求め、その結果「養老の滝」や「お水取り」などの数々の聖水伝説が生まれました。この歌の「越水」( 原文表記 )もその一つと考えられています。



(23)奈良県

明日香村

県立万葉文化館

天皆人の命もわれもみ吉野の滝(たぎ)の

常盤(ときは)の常(つね)ならぬかも

 笠 金村
(巻六・922番)

(1)奈良・県立万葉文化館
(2)笠金村の万葉歌碑
(3)笠金村の万葉歌碑
(4)歌碑の解説
【県立万葉文化館へのアクセス】

近鉄橿原神宮前駅・東口から
バスで約30分万葉文化館西口下車
徒歩すぐ
この歌も先の巻六・921番の歌と同じく、聖武天皇(しやうむてんわう)の吉野行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首で、巻六(九二〇)の長歌に付けられた反歌の内のひとつです。「常盤(ときは)」は岩石のことです。そんな吉野川の岩石のように「すべての人々の命も私の命も吉野の滝の岩石のように変わらずにあってほしいものです」と詠った、言霊の祈りの歌となっています。笠金村たち聖武天皇の時代の人々の歌になるとどうしても歌が持つ言霊の力にもかつての柿本人麿たちのような力強さが薄れてしまっているように感じるのですが、それでも金村たちは金村たちなりの信仰の形を持って吉野の土地の神々に祈りの言葉を捧げたのでしょう。そんな奈良時代の宮廷歌人の姿が垣間見えて、この歌もまた静かな魅力のある一首のように思います。



(24)奈良県

明日香村

県立万葉文化館

春日なる 御笠の山に 月の舟出づ 

風流士《みやびを》の 飲む酒杯に 影に見えつつ

 作者不詳
(巻七・1295番)

(1)県立万葉文化館・万葉歌碑(作者不詳)
(2)万葉歌碑(作者不詳)
(3)万葉歌碑(作者不詳)
(4)歌碑の解説
【県立万葉文化館へのアクセス】

近鉄橿原神宮前駅・東口から
バスで約30分万葉文化館西口下車
徒歩すぐ
奈良市東方の春日山前方の地で、御蓋山(283m)がある。花や月の名所。平城京遷都以後に多く詠まれるようになる。山部赤人は春日野に登り「春日を 春日の山の 高座の 三笠の山に 朝去らず 雲ゐたなびき」(3-372)と詠んでいる。三笠山には「高座の」という枕詞が付くのは、高座が天皇の玉座であり、その玉座には天蓋(笠)が覆うことから、「高座の三笠」と続いた。山容が、天蓋に似ていることによる。それゆえに「大君の三笠の山の黄葉は今日の時雨に散りか過ぎなむ」(8-1554)のように、天皇へ差し掛ける御笠へと容易に結び付いている。また、この歌のように三笠山はモミジの名所であって「時雨の雨間なくし降れば三笠山木末あまねく色づきにけり」(8-1553)のように、時雨が降ると美しくモミチする山として詠まれている。また「春日なる三笠の山に月も出でぬかも 佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく」(10-1887)や、「春日なる 三笠の山に 月の舟出づ みやびをの 飲む酒坏に 影に見えつつ」(7-1295)のように、月の名所でもあった。周辺には、皇子たちの別荘が置かれていた。



(25)奈良県

明日香村

県立万葉文化館

君を待つ松浦の浦の娘子(をとめ)らは

常世(とこよ)の国の天娘子(あまをとめ)かも

 吉田宜
(巻五・865番)

(1)県立万葉文化館・万葉歌碑(作者不詳)
(2)万葉歌碑(作者不詳)
(3)万葉歌碑(作者不詳)
(4)歌碑の解説
【県立万葉文化館へのアクセス】

近鉄橿原神宮前駅・東口から
バスで約30分万葉文化館西口下車
徒歩すぐ
この歌も先の巻五・864の歌と同じく、大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)からの書簡に、奈良の都の吉田宜(よしだのよろし)が返書した手紙に添えられた歌のうちのひとつです。巻五・864番の歌は旅人が書簡に添えた「梅花(うめはな)の歌」に宜が追和したものでしたが、こちらの巻五・865番の歌は「松浦河に遊ぶ」の歌(巻五・853番〜863番までを参照)のほうに追和した内容となっています。歌の内容は「あなたを待つという松浦川の浦の少女たちはきっと神仙の国の天女ですね」と、「松浦河に遊ぶ」の主人公の男を待つという巻五・860番の娘子の歌を念頭に、さらに「待つ」から同音で「松浦(まつら)」に繋げたなかなかに技巧の効いた一首です。「松浦河に遊ぶ」の一篇の中では少女たちの正体についてははっきりと詠われませんでしたが、神仙の国の天女であろうと推測しているところも多くの読者の推測に一致して、共感を得る内容となっているように思われます。



(26)奈良県

明日香村

飛鳥川(雷橋付近)

わが野外に蒔きし瞿麦いつしかも花に咲きなむ比へつつ見む

 大伴家持
(巻八・1448番)

(1)奈良・明日香村・飛鳥川河畔(雷橋付近)
(2)万葉歌碑(大伴家持)(雷橋付近)
(3)奈良・明日香村・飛鳥川河畔(雷橋付近)
(4)奈良・明日香村・飛鳥川河畔(雷橋付近)
【飛鳥川・雷橋へのアクセス】

近鉄橿原線・橿原神宮前駅下車

徒歩約25分
この歌は大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)が大伴坂上大嬢(おほとものさかのうへのおほをとめ)に贈った恋の一首です。坂上大嬢は大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)の娘で、後に家持の妻となった女性です。この歌から万葉集巻八の春の相聞歌の部に入ります。「瞿麦(なでしこ)」は現代のカワラナデシコのことです。歌の内容は「わが家の庭に蒔いた瞿麦はいつ花が咲くのだろうか。花が咲いたなら貴女だと思って見たいものです」と、庭に蒔いた瞿麦の種が花開くのを楽しみに待ちわびているとの一首です。そしてそんな花開いた瞿麦を大嬢に見立てて眺めたいのだとの想いを詠っています。家持はとくに瞿麦の花が好きだったようですが、可憐な瞿麦の花に譬えられて毎日眺めたいと口説かれては大嬢も素直に嬉しかったことでしょう。そんな自分の好きな花に愛する恋人を見立てて眺めたいとの、家持の繊細な恋心が詠われた素敵な一首のように思われます。



(27)奈良県

明日香村

伝承飛鳥板蓋宮付近)

采女(うねめ)の袖吹きかえす明日香風都を遠みいたづらに吹く

 志貴皇子
(巻一・51番)

(1)奈良・明日香村・伝承飛鳥板蓋宮付近
(2)奈良・明日香村・伝承飛鳥板蓋宮付近
(3)万葉歌碑(伝承飛鳥板蓋宮付近)
(4)万葉歌碑(伝承飛鳥板蓋宮付近)
【伝承飛鳥板蓋宮へのアクセス】

 近鉄 橿原神宮前駅又は飛鳥駅より
   明日香周遊バス
「岡天理教前」下車 徒歩約5分
この歌は志貴皇子(しきのみこ)の作で、非常に有名な一首の一つです。志貴皇子は天智天皇の子です。壬申の乱(じんしんのらん)で大海人皇子が勝利し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位したのち、京は藤原京へと遷されました。この歌は京が遷されたのち、志貴皇子がかつての宮だった明日香を訪れて詠んだものです。実際には明日香と藤原京はすぐ近く(一説には飛鳥の宮は藤原京大極殿の出来たあたりまで広がっていたとも)で、明日香の地から藤原京もすぐ目の前に見えるような位置なのですが、それでも宮(首都)ではなくなった土地というのはやはり活気がなくなり寂しさの漂うものだったと思われます。また、この時代では活気がなくなるというのはその土地の神の力が衰退したとも考えられていました。そしてそのような場所を訪れたものはかならずこのように、その土地と土地の神を慰める歌を詠むのが慣わしでした。



(28)奈良県

明日香村

飛鳥川・玉藻橋付近

明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに

 作者不詳
(巻七・1380番)

(1)飛鳥川・玉藻橋付近
(2)飛鳥川・玉藻橋
(3)万葉歌碑(飛鳥川・玉藻橋付近)
(4)飛鳥川・玉藻橋付近

【飛鳥川・玉藻橋へのアクセス】

 近鉄 橿原神宮前駅から
バスで約30分
石舞台下車・徒歩約10分
この歌の歌意は明日香川の瀬ごとに美しい藻が生えているけれど、しがらみが設けてあるので 靡きあう様子が見られないなあ。と言う意味です。川の流れが淀んでいて藻が靡いている美しい光景が見られないと嘆いた歌ですが、相思相愛の仲なのに結ばれない男女を第三者が同情したものという解釈もあります。すなわち、 「瀬々に玉藻は生ふ」は相思相愛の関係にある男女、「しがらみ」その男女の仲をさえぎるもの(世間、親)、「靡きあう」男女が一緒になることを譬えているとするものです。なお、玉藻は藻の美称です。