(1)今月の万葉秀歌訪問

縦方向にスクロールしてご覧下さい。(14首・16歌碑)

(1)富山県高岡市

雨晴海岸

立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし


 大伴家持(巻十七・4001番)
(1)雪を頂く、初夏の立山連峰
(2)雨晴海岸からの立山連峰遠望
(3)雨晴海岸からの立山連峰遠望
(4)雨晴海岸からの立山連峰遠望
【雨晴海岸へのアクセス】
JR氷見線「雨晴駅」からすぐ
大伴家持(おおとものやかもち)が国守として越中に赴任してきたのは。天平18年のことである。華やかな都での生活から一転、ひなびた北国に下ってきた29歳の若き家持であったが、越中の雄大な自然と風土は彼の作歌意欲をかきたてるのに充分であった。眼前には万古の雪をいただいた立山連峰が神々しくそびえ立っていたる。おそらく雨晴海岸から立山も眺めて詠んだ歌ではなかろうか。日本文学史上に不朽の名をとどめる「万葉集」。その編者であると同時に代表的家人でもある大伴家持が、越中在任5年間に読んだ歌は220余首。これは彼の作品の半数近くに上る。

(2)富山県高岡市

多気神社

馬並めて いざうち行かな 渋谷の きよき磯みに よするなみ見に


 大伴家持(巻十七・3954番)
(1)気多神社参道
(2)気多神社の鳥居
(3)気多神社にある歌碑
(4)雨晴海岸
【多気神社へのアクセス】
JR氷見線

 伏木駅徒歩約20分
馬を並べて、さあ出かけようじゃないか。渋谷(現在の高岡市太田渋谷地内)の清らかな磯に打ち寄せているその波を見る為に。この海岸は高岡市の伏木から雨晴海岸の辺りであろうと思われる。この歌碑は二上山のふもとの鬱蒼とした森の中にあり、気多神社神社本殿台地の下の小公園風の所にある。良く探さないと分らない。隣に大伴家持卿の顕彰費碑がある。また、気多神社の側に、大伴神社がある。

(3)富山県高岡市

伏木光暁寺

春能苑 紅尓保布 桃能花 下照類道尓 出天立津少女
(春の園 紅匂う 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女)

 大伴家持(巻十九・4139番)
(1)伏木東一宮の光暁寺
(2)光暁寺の石碑
(3)光暁寺の歌碑
(4)光暁寺の歌碑(万葉かな)
【光暁寺へのアクセス】
JR氷見線

 伏木駅徒歩約10分
この歌は大変好きな歌の一つで、春に執り行われる結婚式では挨拶の中で良く使わせて頂いております。題詞に天平勝宝二年三月一日の暮に、春の苑の桃李の花を眺矚(なが)めて作る二首とあり、この歌は桃の花の方で、大変美しい光景が詠まれています。意味は”春の苑は、紅の色に照り映えている。桃の花に染められてほのかに赤く色づいた道に、(紅の裳裾を垂らした)少女たちが佇んでいる。”と言うもので、冒頭の題詞通りに解釈すれば、実際詠み手が目にしているのは苑に咲く花だけであり、乙女は幻想されたイメージであろうと思われます。

(4)富山県高岡市

太田雨晴海岸・つまま小公園
磯上之 都萬麻乎見者 根乎延面 年深有之 神佐備尓家里
(磯の上の つままを見れば 根を延へて 年深からし      神さびにけり)

 大伴家持(巻十九・4159番)
(1)太田・つまま小公園の歌碑
(2)太田・つまま小公園の歌碑(万葉かな)
(3)太田・雨晴海岸の歌碑
(4)太田・雨晴海岸の歌碑
【つまま小公園へのアクセス】
JR氷見線

 雨晴駅徒歩約5分

"磯の上に立つつままを見ると、根を岩にしっかりおろしていて、何年も年を経ているらしい。なんと神々しいことか。"と言う意味です。「都麻々」は古くは「トママ」と読まれ、どの木のことか不明とされていました。近年「つまま」と読まれるようになり、一般的にはタブノキのこととされています。地域によってはタモノキと呼ばれてもいます。確かにタブノキは「神さぶ」巨木となります。果たして家持が見た「都麻々」は、どんな木だったのか、今でも議論になっている様です。

(5)富山県高岡市

@伏木・勝興寺

AJR高岡駅前
もののふの 八十娘子(やそおとめ)らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花

 大伴家持(巻十九・4143番)
@−(1)伏木・勝興寺
@-(2)伏木・勝興寺の寺井の跡
@-(3)伏木・勝興寺の寺井の横の歌碑
@-(4)伏木・勝興寺の寺井の跡の説明
A-(1)JR高岡駅
A=(2)JR高岡駅前の家持像と歌碑
A-(3)JR高岡駅前の歌碑
A-(4)歌碑の解説
【伏木・勝興寺へのアクセス】
JR氷見線

 伏木駅徒歩約5分

"堅香子の花(カタクリ)が詠まれているのは、万葉集では唯一この作品のみの様です。歌としてもかなり有名で、割合に好まれている作品といえます。「注釋」(澤瀉久孝)は”たくさんの少女たちが入り乱れて水を汲む寺の井のほとりのかたくりの花よ”と口訳されています。多くの注釈書はこの歌の上三句を実景と考えて、次の第四句「寺井」にかかってゆく表現と理解しています。同じく上三句をひとまず実景とするものの、この少女たちは越中の女性ではなく、実は都の女性たちである、とする解釈もあります。

(6)富山県高岡市

伏木測候所
(伏木古国府跡)
朝床に 聞けば遥けし 射水川(いみづかわ) 朝漕ぎしつつ
 唱ふ船人

 大伴家持(巻十九・4150番)
(1)旧伏木測候所跡(越中国守館跡)
(2)旧伏木測候所跡(越中国守館跡)
(3)越中国守館跡の歌碑
(4)歌碑の解説
【伏木測候所跡へのアクセス】
JR氷見線

 伏木駅徒歩約5分
射水川(いみずかわ)は富山県高岡市小矢部川のことで、朝寝床で聞いていると、船頭が唄いながら、櫓を漕いで射水川を渡っていた。船頭が歌(民謡調?)を唄って、櫓を漕いでいる。その声が、朝の静けさの中で、私の眠りを醒ますかのように、遠くから聞こえてくる。のどかさと、その土地に根ざした風土を感じることができる歌です。

(7)富山県高岡市

勝興寺
(伏木古国府)
雲美由可者 美川久可波禰 也未遊可波 久斜武春閑者禰 大君能扁耳古所志那女 駕弊利見者勢之
[海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ]

 大伴家持(巻十八・4094番)
(1)伏木・勝興寺唐門
(2)伏木・勝興寺太鼓堂
(3)太鼓堂と万葉歌碑
(4)太鼓堂前の万葉歌碑
【伏木・勝興寺へのアクセス】
JR氷見線

 伏木駅徒歩約5分

大伴家持は天平18年(746年)、越中国(富山県)の国守となり、国府があった高岡に5年間赴任しています。当時、聖武天皇は奈良の大仏を作らせていました。銅製の大仏の上にする金メッキのための金が必要でした。ところが、当時日本では金が産出されていませんでした。日本ではじめて、陸奥国(宮城県遠田郡湧谷町)で金が産出し、大量の砂金が朝廷に献上されました。これで、念願の大仏が完成することを喜ばれた聖武天皇が、天皇家を代々守ってきた大伴・佐伯両氏に感謝の詔書を出された。越中国でそれを受け取った大伴家持が、感激して作った長歌の中にあるのがこの歌です。

(8)富山県高岡市

太田(渋谷)
 
     渋渓の 二上山に 鷲ぞ子産とふ 翳にも 君が御為に 鷲ぞ子産とふ

 大伴家持(巻十六・3882番)
(1)雨晴海岸
(2)岩崎鼻灯台
(3)太田(渋谷)の湯入口の万葉歌碑
(4)万葉歌碑
【太田の湯入口へのアクセス】

JR氷見線雨晴駅より徒歩約30分
歌の意味は”渋谷の二上山に鷹が子を産むそうな。差し羽の料になり、君のお役に立とうと、鷹が子を産むそうな。”と極単純な歌意と言えます。国道から渋谷川に沿って、湯治場の太田の湯へ行くように約1100m入ると太田の湯への入口道の道端にこの歌碑が立っています。周りには人家も無く、鶯も鳴きそうな二上山の山麓にあたります。空を見上げると、万葉の世界が広がりそうな、静寂に包まれています。この石碑には珍しく石工の名前も彫られています。(能登北河内群中・・・次と)

(9)富山県高岡市

@二上山・奥御前下

A伏木一ノ宮・正法寺
@玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり

A玉久し希 二上山耳 那久鳥の 聲能こ非志支 時者来尓介り

 大伴家持(巻十七・3987番)
@ー(1)二上山御前下(二上山万葉ライン)
@ー(2)二上山御前下・大伴家持像
@ー(3)二上山御前下・大伴家持像台座裏
@ー4二上山からの小矢部川(射水川)の眺め
A−(1)正法寺参道
A−(2)正法寺本堂
A−(3)正法寺裏山の歌碑
A−(4)小矢部川(射水川)からの二上山の眺め
@【二上山奥御前下へのアクセス】
JR伏木駅より二上山万葉ライン車で約15分

A【正法寺へのアクセス】
JR伏木駅より徒歩約20分

”(玉くしげ)二上山に鳴く鳥の声の恋しい季節がやってきた。”の歌意です。「二上山」は、その名のとおり2つの峰をもつ山でしたが、2峰のうちの西峰は、室町時代に守山城が築かれたため削られており、見る角度によっては「二上」に見えません。東峰は標高274mあります。家持はこの山を題材にした多くの歌を詠んでいます。きっと家持が住んでいた伏木の国守館跡からは、当時は二上山がよく 見えたのでしょう。同じ名前の「二上山」がある都を恋しく思いながら、ここの二上山を朝夕に眺めていたのかも知れません。越中の 二上山の四季の美しさに感動したのでしょう。

(10)富山県高岡市

伏木一ノ宮・正法寺

雄神河 紅匂 乙女良志 葦附採留東 瀬尓多々須羅四
(をかみがは くれなゐにほふ おとめらし あしづきとると せにたたすらし)

 大伴家持(巻十七・4021番)
(1)正法寺参道
(2)正法寺本堂
(3)正法寺本堂裏山の歌碑
(4)雄神川(現在の庄川)
【正法寺へのアクセス】


JR伏木駅より徒歩約20分

歌意は”雄神河(現在の庄川)の川面に紅の色が映えて、におうように美しい。娘たちが葦付(川藻:あしづきのり)を取ろうと瀬に立っているらしい。”で、美しい光景が目に浮かぶ様である。天平20年(748)の春、国司家持は出挙のため管内の諸郡を巡行し庄川の中洲にまつってある弁才天(庄川町庄)あたりから西北に向かって流れる庄川本流を渡ろうとして、川のほとりに立った時の情景を詠んだものと言われている。葦附の歌を詠んだ家持は、雄神神社に詣で、北に進んで安川村(砺波市)のあたりから右折して千光寺(砺波市)のある芹谷をすぎて婦負郡に入り、山田川沿いに速星に出て、当時鵜坂川と呼ばれていた神通川を渡って新川郡へ入った様だ。

(11)富山県高岡市
伏木一ノ宮

高岡市万葉歴史館

安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈加 久奴知許登其等
夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由気等毛
須売加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曾能多知夜麻尓

(天離(あまざか)る 鄙(ひな)に名懸(か)かす 越の中 国内(くぬち)ことごと 山はしも 繁(しじ)にあれども 川はしも  多(さは)に行(ゆ)けども 皇神(すめかみ)の 領(うしは)きいます  新川の その立山に 常夏に 雪降りしきて 帯(お)ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕(よひ)ごとに 立つ霧の 思い過ぎめや あり通ひ いや年のはに 外(よそ)のみも 降り放(さ)け見つつ 万代の 語らひ草と いまだ見ぬ
人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨(とも)しぶるがね)
 大伴家持(巻十七・4000番)
(1)高岡市万葉歴史館
(2)万葉歌碑(後方は高岡市万葉歴史館)
(3)万葉歴史館裏山の万葉歌碑
(4)万葉歴史館裏山の万葉歌碑
【高山市万葉歴史館へのアクセス】


JR伏木駅より徒歩約20分 

次の歌4001番にもつながる立山賛歌の長歌である。(揮毫は万葉学者犬養孝先生)現代語訳は”空のかなたの鄙の地に、名をひびかせておいでの立山。越の国には、国じゅにたくさんの山があるのに、川だって多く流れているが、とくにその中で皇神が支配なさる新川の立山。その山は夏じゅうも雪が絶えず降りつぎ、帯となさる片貝川の清らかな瀬には朝も夜も霧が立つ。その霧のように、どうして忘れることがあろう。いっそう通い続けて、毎年、外ながらでも遠く仰ぎ見て、後々の話しの種として、まだ見たことのない人に語り継ごう。人々が、うわさだけでも、名前だけでも聞いて、羨しく思うだろうに。

(12)富山県高岡市
伏木一ノ宮

高岡市万葉歴史館

射水川 い行き廻れる 玉くしげ 二上山は 春花の さける盛りに秋の葉の にほへる時に 出で立ちて ふりさけ見れば 神からや
そこば貴き 山からや 見がほしからむ 皇神の 裾廻の山の
渋渓(しぶたに)の 崎の荒波に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに満ち来る潮の いま増しに 絶ゆること無く 古ゆ 今の現(をつつ)に 斯(か)くしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ

 大伴家持(巻十七・3985番)
(1)高岡市万葉歴史館(正面)
(2)万葉歴史館庭園
(3)万葉歴史館の万葉歌碑
(4)射水川(現在の小矢部川)から二上山を望む
【高山市万葉歴史館へのアクセス】


JR伏木駅より徒歩約20分 

二上山は、その名のとおり2つの峰をもつ標高273メートルの小高い山ですが、付近に高い山がないため、高岡市街はいうまでもなく、富山湾や遥か向こうの立山連峰を望むことのできる景勝の地で、市民の憩の場となっています。天平19年(747)3月、家持は上記の「二上山の賦」を詠み、射水川(現小矢部川、庄川)が山すそをめぐって流れ、渋溪で断崖となって荒磯の海に没するこの二上山が神の山であるためか、四季折々の美しさが人をひきつけてやまぬと絶賛しています。この長歌には、二上山の素晴らしさがあますところなく表現されています。

(13)富山県氷見市

上田子

国泰寺入口四辻角

  多胡乃佐伎 許能久礼之氣尓 保登等藝須 伎奈伎等余米婆    波太古非米夜母

   (多胡の崎 木の暗茂に ほととぎす 来鳴き響めば       はだ恋ひめやも)

 大伴家持(巻十八・4051番)
(1)国泰寺入口四辻角も大伴家持郷歌碑正面
(2)国泰寺入口四辻角も大伴家持郷歌碑
(3)田子浦藤波神社社殿
(4)田子浦藤波神社社殿
【氷見市上田子へのアクセス】


JR氷見線雨晴駅より徒歩約30分 
天平20年(748年)大伴家持31才の時の歌です。訳としては”多胡の島の崎は木が茂っているがホトトギスよここに、やって来て、鳴き立ててくれたらこんなにも ホトトギスを恋しがることはないのにホトトギスよ、鳴いておくれいまここで”と言う意味で、素朴な内容です。家持の時代には多胡の崎は布勢の海にあった崎であすが、現在は田子の地名のみが残っています。一帯は現在は田園風景が広がっています。

(14)富山県氷見市

下田子

藤波神社

  藤奈美能 影成海之 底清美 之都久石乎 毛珠等曽吾見流夜母

(藤波の 影成す海の 底清み しずく石をも 珠とぞ吾が見る) 

 大伴家持(巻十九・4199番)
(1)田子の浦藤波神社正面
(2)田子の浦藤波神社参道
(3)藤波神社・大伴家持郷歌碑
(4)歌碑説明文
【藤波神社へのアクセス】


JR氷見線雨晴駅より徒歩約30分 

下田子農協から西側のわき道を300メートル余り入っていくと、田子浦藤波神社があります。万葉集の中で歌われている「田子の浦」は、このあたりを指すと言われています。天平18年(746)越中国守大伴家持に従ってきた橘正長(たちばなまさなが)が、家持から授けられた太刀を祭ったのがこの神社のはじまりと伝えられています。石段を登って正面拝殿の裏にまわると「大伴家持卿歌碑」と記した碑が建っています。この歌は、国守家持が布勢の海水遊覧の折、田子の藤波のあまりの見事さに魅せられ詠んだものです。