(1)今月の万葉秀歌訪問

縦方向にスクロールしてご覧下さい。(10首・13歌碑)

(1)和歌山県

日高郡・南部町

岩代

  磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

(磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば
 また還り見む)

 有間皇子(巻二・141番)
(1)岩代の結び松記念碑
(2)結び松記念碑説明板
(3)岩代・光照寺(有間皇子歌碑がある)
(4)歌碑:揮毫は万葉学者沢瀉〔おもだか〕久孝氏
【岩代結び松へのアクセス】


JRきのくに線岩代駅から
徒歩約15分

(磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたらまたこれを見よう)
有間皇子の悲劇の舞台で、生か死かの不安な気持ちの中にもわずかな生への望みを表現していると読める歌である。ただ異説があって,連行される時に詠んだのではなく,1年前の牟婁の温湯に出かけたときの歌ではないかともされている。11月9日夕刻,中大兄皇子が捕らわれて護送されてきた有間皇子に「なぜ謀反を企てたのか」と問うと,有間皇子は「天と赤兄と知る。私は全く知らない。」とだけ答えた。2日後の11月11日,有間皇子は藤白坂にて処刑された。まだ19歳の若さであった。供の4人の内2人が斬り殺され,残りは流罪となりました。。   

(2)和歌山県

日高郡・南部町

岩代

君之歯母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名

(君が代も 吾代も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな)

 斉明天皇(巻一・10番)
(1)岩代の結び松記念碑
(2)結び松記念碑説明板
(3)岩代・光照寺(有間皇子歌碑がある)
(4)歌碑:揮毫は万葉学者犬養孝氏
【光照寺へのアクセス】


JRきのくに線岩代駅から
徒歩約15分

(あなたの命も私の命も支配する、この岩代の岡の草を結びましょう)

斉名天皇は第37代の天皇で舒明天皇の皇后。この歌は紀の温泉に行った時の歌である。紀の温泉は、今の白浜温泉付近の鉛山温泉。その途中に後に有間皇子の結び松で有名になった磐代があります。草を結ぶのはその草に自分の霊魂を結び付け、道の神に自分の無事を護ってもらうのです。この時は皇太子の中大子を同行していたと思われ、皇太子に向って、一緒に草を結ぶことを誘いかけたんであろうと思われる。

(3)和歌山県

和歌山市・加太

紀伊の国の 飽等(あくら)の浜の 忘れ貝 我は忘れじ

年は経ぬとも


 詠み人不詳(巻十一・2795番)
(1)加太の淡嶋神社
(2)加太の田倉崎
(3)加太・田倉崎にある歌碑
(4)加太・田倉崎にある歌碑
【加太・田倉崎へのアクセス】


南海電鉄加太線加太駅から

徒歩約40分

古代大和朝廷の貴族や歌人にそののどかな風景が広く親しまれていたのが加太の田倉崎です。岬の灯台下には、「紀伊(き)の国の 飽(あく)等(ら)の浜の 忘れ貝 我れは忘れじ 年は経(へ)ぬとも」という石碑が建ってます。忘れ貝とは、二枚貝の放れ放れの一片。他の一片を忘れるという意の名称といい、またこれを拾うと恋を忘れるという意味もある様です。(広辞苑)あまり観光客が来ない静かなところでシュノーケリングや磯遊び、夕日を眺める場所としてもとてもよい岬です。

(4)和歌山県

和歌山市・城ヶ崎

藻刈(もが)り舟 沖漕ぎ来らし 妹が島 形見の浦に

鶴翔(たづかけ)る見ゆ



 詠み人不詳(巻七・1199番)
(1)加太の城ヶ崎の海岸
(2)加太の城ヶ崎
(3)加太の城ヶ崎の歌碑
(4)城ヶ崎の歌碑
【加太・城ヶ崎へのアクセス】

南海電鉄加太線加太駅から

徒歩約40分

この歌碑は和歌山市加太の城ヶ崎の先端に立っています。沖合いに横長く浮かぶのが友ヶ島(地ノ島、沖ノ島)です。美しい海への憧憬が詠まれた風景は妹が島は現在の友ヶ島、形見の浦は加太にその名を残しています。淡嶋神社はもとは友ヶ島にあったと言われています。仁徳天皇が今の場所に移したと伝えられています。毎年3月3日に行われる雛流し神事は有名です。

(5)和歌山県

和歌山市・雑賀崎
番所ノ鼻

紀の国の 狭日鹿の浦に 出で見れば 海人の燈火(ともしび)

   波の間ゆ見ゆ


 藤原卿(巻七・1194番)
(1)雑賀崎番所庭園の歌碑と説明板
(2)雑賀崎番所庭園の歌碑
(3)雑賀崎番所庭園の歌碑の説明板
(4)雑賀崎番所庭園から眺望

【番所ノ鼻へのアクセス】

市駅・和歌山駅より和歌山バス「雑賀崎」行循環線に乗車、「雑賀崎」遊園で下車、徒歩15分
ここは地名を「番所ノ鼻」と言い、平坦で海に長く突き出た地形になっています。昔、紀州藩の海岸十数ヵ所に海の防備見張り番所がありましたが、ここはその中でも和歌山城に最も近い場所として、重要な所でした。万葉時代に大和の都から天皇がお供の宮廷人、公家達と和歌の浦に行幸されました折り、藤原卿がここ番所庭園の北側に広がる海「雑賀の浦」の漁火を見て詠まれたと言われているのがこの有名な歌です。

(6)和歌山県

和歌山市・雑賀崎
番所ノ鼻

み熊野の 浦の濱木綿 百重なす 心は思えど 直に逢はぬかも

   

 柿本人麻呂(巻四・496番)
(1)雑賀崎番所庭園
(2)雑賀崎番所庭園の歌掲示板
(3)雑賀崎番所庭園の浜木綿
(4)雑賀崎番所庭園からの眺望
【番所ノ鼻へのアクセス】

市駅・和歌山駅より和歌山バス「雑賀崎」行循環線に乗車、「雑賀崎」遊園で下車、徒歩15分
この歌は熊野の浦で詠まれたもので、この場所からは大分南の方向になりますが、庭園に多い浜木綿に因んで掲示されているものと思われます。歌意は熊野の浦の濱木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っています”で、恋歌です。南国の明るい太陽と熊野灘の雄大な海を背景に、鮮やかな緑の葉に白い優雅な花を咲かせ、芳香を漂わせるその姿は万葉びとの心に鮮烈な印象を残したものと思われます。

(7)和歌山県

和歌山市・和歌の浦

神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊の国に幸(いでま)す時に、
 山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)が作る歌一首、併せて短歌


やすみしし 我ご大君の 常宮(とこみや)と 仕え奉れる
雑賀野(さひかの)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に
風吹けば 白波騒ぎ 潮干(ふ)れば 玉藻刈りつつ
神代より しかぞ貴き 玉津島山

   
 山部赤人(巻六・917番)
(1)玉津島神社(和歌の浦)
(2)玉津島神社の歌碑
(3)玉津島神社の歌碑(揮毫は万葉学者犬養孝先生)
(4)歌碑の説明板
【玉津島神社へのアクセス】

JR和歌山駅→和歌山バス新和歌浦行きで25分、バス停:不老橋下車、徒歩すぐ

【通釈】我が大君のとこしえの宮としてお仕え申し上げる雑賀野から背後に見える沖の島――その島の清らかな渚に、風が吹けば白波がざわざわと音を立て、潮が引けば美しい藻を刈ることを繰り返して――神代からそんなにも尊いことよ、玉津島山は。この長歌では、満潮のときも、干潮の時も玉津島は素晴らしい、貴いところと表現しています。赤人の作り上げた美の意識が今日もなお受け継がれている様です。


(8)和歌山県

和歌山市・和歌の浦

玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ

見ぬ人のため

   
 藤原卿(巻七・1222番)
(1)万葉のふるさと玉津嶋(和歌の浦)
(2)玉津島神社(和歌の浦)
(3)玉津島神社(和歌の浦)
(4)玉津島神社の歌碑
(1)和歌山市立明和中学校校門
(2)和歌山市立明和中学校校舎
(3)和歌山市立明和中学校校庭の万葉歌碑
(4)明和中学校の”和歌の浦に・・・”の歌碑
【玉津島神社へのアクセス】
【塩竈神社へのアクセス】
JR和歌山駅→和歌山バス新和歌浦行きで25分、バス停:不老橋下車、徒歩すぐ

【市立明和中学校へのアクセス】
JR紀勢本線紀三井寺駅下車
徒歩約15分

和歌浦の中心とも言える玉津島は今は小山だが、古くは島があたかも玉のように海に点在し、風光明媚で神のおわす所として崇められていた。「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」と詠んだ歌は、この付近の景色の良さを絶賛している。玉津島神社の祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)、神功皇后、衣通姫(そとおりひめ)の三女神。そのひとり衣通姫は着衣を通しても輝くばかりの美女で、和歌の名手であったことから、この神社は「和歌の神」として朝廷、文人、墨客らの尊崇を受けていました。又この神社のすぐ隣には塩竈神社もあります。紀三井寺へ向かう道筋に市立明和中学校があり、この中学校のグランドの横にこの歌の歌碑があります。

(9)和歌山県

和歌山市・和歌の浦

奥嶋 荒磯之玉藻 潮干満 伊隠去者 所念武香聞

沖つ島 荒磯(ありそ)の玉藻 潮干満ち い隠りゆかば

 思ほえむかも

   
 山部赤人(巻六・918番)
(1)万葉のふるさと玉津嶋(和歌の浦)
(2)玉津島神社(和歌の浦)
(3)玉津島神社の万葉歌碑(揮毫は万葉学者犬養孝先生) (4)”沖つ島・・・”の歌は右側
(1)和歌の浦遊歩道の海岸
(2)和歌の浦遊歩道の海岸
(3)和歌の浦遊歩道脇の万葉歌碑
(4)和歌の浦遊歩道脇の万葉歌碑
【玉津島神社へのアクセス】
JR和歌山駅→和歌山バス新和歌浦行きで25分、バス停:不老橋下車、徒歩すぐ

【和歌の浦遊歩道へのアクセス】
JR和歌山駅→和歌山バス新和歌浦行きで20分、バス停:新和歌の浦下車徒歩7分

歌意は沖の島の荒磯に生えている玉藻刈りもしたが、今に潮が満ちて来て荒磯が隠れてしまうから、心残りがして、玉藻を恋しく思うだろと言うもので、その前の長歌917への反歌である。724年に聖武天皇が紀伊国(和歌山県および三重県南部)に行幸された折に赤人が詠んだ歌である。赤人は奈良時代の初期から中期にかけて、作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)で、歌人・山上憶良より少し遅れ、虫麻呂と同時代の人で古くから、人麻呂と並び称せられ、特に自然を詠じた叙景歌が優れている。

(10)和歌山県
和歌山市・紀三井寺


和歌山市・片男波公園
万葉の小路

名草山 言にしありけり 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに



 作者不詳(巻七・1213番)
(1)紀三井寺参道
(2)紀三井寺本堂
(3)紀三井寺本堂前の万葉歌碑
(4)”名草山・・・”の歌碑
(1)片男波公園・万葉の小路
(2)万葉の小路の万葉歌碑
(3)”名草山・・・”の万葉歌碑
(4)片男波公園から名草山遠望
【紀三井寺へのアクセス】

JRきのくに線紀三井寺駅から南東へ
徒歩約10分


【片男波公園へのアクセス】

JR和歌山駅から24系統で
「新和歌浦行き」和歌山バスで
約30分「不老橋」下車
徒歩約10分

和歌の浦の東方に名草山があります。高さは228メートルの小高い山ですが、中腹には西国三十三所第二番札所の紀三井寺があります。名草山は日本書紀神武天皇の条にも登場します。名草戸畔と言う女賊がいたと言うことです。又、神武天皇の兄、五瀬命が戦いに敗れて亡くなり、この名草山の北麓竈山葬ったとあります.「名草山」の「なぐさ」から 「慰め」を連想したこの歌碑は、紀三井寺の境内に立てられています。土産物屋が並ぶ参道を過ぎ、楼門をくぐると頭上見上げるばかりに長く続く階段があります。この階段を上がりきると本堂のある境内に着き、歌碑はこの本堂前に建っています。歌碑のある境内からの眺望は実に素晴らしく、高津子山をはじめ 和歌浦の全景が一望出来ます。万葉時代には山裾近くまで入り江が広がり、遠く海中には 藤原卿が「見れども飽かず」と表現した「玉津嶋」が点在していました。現在 その姿は大きく変貌していますが、それでも今日私建ちが目にする物の中に、万葉人が愛してやまなかった絶景を想像することが出来ます。また和歌浦・片男波公園の万葉の小路にもこの歌の歌碑があります。この公園からは海越しに姿の良い名草山を遠望することが出来ます。