(1)今月の万葉秀歌訪問

縦方向にスクロールしてご覧下さい。(38首・37歌碑)

(1)福岡県

大宰府市

大宰府政庁跡

あおによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の 

薫ふがごとく 今さかりなり

 小野老(巻三・328番)
(1)大宰府都府政庁(都府楼)跡
(2)大宰府政庁跡の万葉歌碑
(3)”あおによし・・・”の歌碑
(4)万葉歌碑の説明版
【大宰府都府政庁跡へのアクセス】

西鉄都府楼前駅から

北東へ徒歩約15分

この歌は万葉集の中でも最もポピュラーな一首である。小野老朝臣(あそみ)が天平元年(729)に大宰少弐として大宰府に着任した時、歓迎の宴席で披露した歌とされています。従って、実際の目の前の光景を詠んだものでは無く、平城京の繁栄の様子を皆に報告する為に詠んだものだと思われます。老は人生の終焉を都から遠く離れた大宰府の地で迎えています。老の死後、老の遺体は荼毘に付され、骨送使の手により、彼が愛して止むことの無かった平城京の地に帰ったとのことです。




(2)福岡県

糸島郡・二丈町

鎮懐石八幡宮

阿米都地能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻
志可志家良斯母

(あめつちの ともにひさしく いひつげと このくしみたま
しかしけらしも) 

 山上憶良(巻五・814番)
(1)二丈町・鎮懐石八幡宮
(2)鎮懐石八幡の九州最古の万葉歌碑
(3)山上憶良の万葉歌碑
(4)万葉歌碑の説明版
【鎮懐石八幡宮へのアクセス】

JR筑肥線深江駅下車

徒歩約10分

深江地区にある鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)は、神功皇后(じんぐうこうごう)伝説にまつわる石、「鎮懐石(ちんかいせき)」をまつった神社です。「鎮懐石(ちんかいせき)」は、奈良時代には既に伝説として伝えられており、その伝説に感銘を受けて詠まれた山上憶良(やまのえのおくら)の歌は、万葉集(まんようしゅう)にも記載されています。この万葉歌を記念して江戸時代に建てられた歌碑が、鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)の万葉歌碑です。九州では最も古い万葉歌碑であることから、町の文化財に指定されています。




(3)福岡県

大宰府市

西鉄大宰府駅前

今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ
 
われなけれども

 大伴坂上郎女(巻八・1474番)
(1)西鉄大宰府駅
(2)大宰府天満宮参道
(3)西鉄大宰府駅前の万葉歌碑
(4)万葉歌碑

【西鉄大宰府駅へのアクセス】

西鉄福岡より大牟田線急行で西鉄二日市にて太宰府線に乗り換える。
計約25分

坂上郎女のこの歌は、坂上郎女が大宰府の生活を終え、奈良に帰ってから、筑紫を懐かしんで詠んだものといわれています。大伴旅人の妻が亡くなった後、旅人の従姉に当たる坂上郎女が、家刀自として、奈良から下向して来ましたが、長官の身の回りの世話から、未だ少年だった大伴家持の教育等にいそしみ、太宰府では、十分に歌が作れる状況では無かったようです。奈良へ帰った後、太宰府の生活を懐かしんで、歌ったものの様です。なお、太宰府では、太宰大監(ダザイダイゲン)の大伴宿弥百代(オオトモノスクネモモヨ)から、恋歌を送られ、冗談は止して下さい見たいな内容の返歌を作ったことはあったようです。




(4)福岡県

福岡市・東区

西戸崎(志賀中学校)

かしふ江に たづ鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちしくらし毛

 作者不詳(巻十五・3654番)
(1)福岡市立・志賀中学校の校門
(2)志賀中学校校庭の万葉歌碑
(3)万葉歌碑
(4)万葉歌碑の説明版
【志賀島へのアクセス】

福岡天神→バス→志賀島小学校前:約1時間5分

博多埠頭→高速船→志賀島港:約
28分

原文:可之布江尓 多豆奈吉和多流 之可能宇良尓 於枳都之良奈美 多知之久良思母
訓読:かしふ江に 鶴鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも
仮名:かしふえに たづなきわたる しかのうらに おきつしらなみ たちしくらしも
参考:・筑紫の館に着いて遥かに故郷を望み、悲しんで作る歌
・かしふ江:福岡県香椎にあり入り江
解釈:香椎の入り江には鶴が鳴きながら飛び廻っている。志賀の浦には沖白波が立ち始めたようだ。




(5)福岡県

大宰府市

九州国立博物館

ここにありて 筑紫や何処(いづち) 白雲の たなびく山の

方にしあるらし 

 大伴旅人(巻四・574番)
(1)大宰府・九州国立博物館
(2)大宰府・九州国立博物館(西側)
(3)大宰府・九州国立博物館西側の万葉歌碑
(4)万葉歌碑

【九州国立博物館へのアクセス】

西鉄福岡より大牟田線急行で西鉄二日市にて太宰府線に乗り換え
計約25分で西鉄太宰府駅
徒歩約10分

万葉集には、大宰府とその周辺の筑紫で詠まれた和歌が320首、また筑紫以外の地で筑紫のことを詠んだ和歌が55首載っています。詠み人は合せて80人ほど、万葉筑紫歌壇といわれています。いまから1,300年の昔、古都大宰府は文化の最先端でもありました。万葉集からは当時の人々の姿が、その思いが浮かび上がってきます。この歌は太宰府の長官である旅人が奈良の都に行った折に、沙弥満誓(さみのまんせい)が旅人あてに歌を贈ったのに答えて詠んだ歌で、”ここ都にいて、はるかに眺めやれば、筑紫は何処であろう。あの白雲のたなびく山の方でありらしい。”と言う歌意です。




(6)福岡県
福岡市・東区
志賀海神社(志賀島)

宗像市・宗像大社

ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神

 作者不詳(巻七・1230番)
(1)志賀島へ通じる”海の中道”
(2)志賀島・志賀海神社
(3)志賀海神社の万葉歌碑
(4)”ちはやぶる”の万葉歌碑
(1)織幡宮
(2)織幡宮参道脇の巨石(沈鐘)
(3)宗像神社
(4)宗像神社の”ちはやぶる”の万葉歌碑
【志賀海神社へのアクセス】
福岡天神→バス→志賀島:約1時間5分
博多埠頭→高速船→志賀島港:約
28分

【宗像神社へのアクセス】
JR鹿児島本線東郷駅から西鉄バス神湊行きで10分、宗像大社前下車すぐ

「航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れません。」という意味の歌です。 ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘の岬は現在の宗像市鐘崎(かねざき)の織幡(おりはた)神社が鎮座する岬で、対峙する地島(じのしま)との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀海神社は古くから海上守護の神様として信仰されて来た様です。境内は落ち着いた佇まいで、手入れもきちんと行き届いていました。ところで志賀島の名前の由来はなんと”鹿の島”そのままで、昔この島には沢山の鹿がいて、貴族たちが鹿狩りをやっていた様です。神社には鹿の角1万本を納めた鹿角堂(しかつのどう)があります。




(7)福岡県

宗像市・田島

宗像大社

大汝(おおむち) 少彦名(すくなびこな)の 神こそば
 
名付けそめけめ 名のみを 名児山と負ひて 我が恋の
 
千重の一重も なぐさめなくに

 大伴坂上郎女(巻六・963番)
(1)宗像大社・本殿
(2)宗像大社の万葉歌碑(二首あり)
(3)宗像大社の”名児山”の万葉歌碑
(4)万葉歌碑の解説板
【宗像大社へのアクセス】

JR鹿児島本線東郷駅から西鉄バス神湊行きで10分、宗像大社前下車すぐ

”名児山の名は大汝(大国主命)と少彦名命がはじめて名付けられた名であるが、心がなごむと言う名を背負っているだけで、私の苦しい恋の千の内の一つさえも慰めてはくれない”と言う歌意です。この歌は天平2年(730年)11月に大伴旅人の帰京よりも一足早く出発した大伴坂上郎女が名児山越えの峠道で詠んだものです。名児山越えは、福津市奴山から宗像田島に抜ける峠越えの道ですが、宗像大社の参拝に使われたのであろうと思われます。万葉学者の犬養先生は、名児山越えの古道を何度も訪れ、藪を切り開いて、古道を復活しましいたが、今では殆ど使用されないので、まt草に埋もれていると思われます。




(8)福岡県

遠賀郡・芦屋町・山鹿

マリンテラス芦屋


天霧らひ ひかた吹くらし 水茎の 岡のみなとに 波立ち渡る




 作者不詳(巻七・1231番)
(1)魚見公園の”マリンテラスあしや”近くの万葉歌碑
(2)歌碑の裏面
(3)魚見公園展望台から見た遠賀川河口付近
(4)近くの岡湊神社
【マリンテラス芦屋へのアクセス】

JR折尾駅発市営バスで栗屋はまゆう団地行き約30分、山鹿郵便局前下車、徒歩約10分
歌意は”空一面にかき曇って日方風(日の方から吹く風)が吹いているらしい岡の港に波が一面に立っている”である。芦屋の遠賀川河口を見下ろせる魚見公園を訪ねて見ました。公園は遠賀川河口の東側の小高い丘の上に建つ国民宿舎マリンテラス芦屋の直ぐ近くで、20〜30段の階段を登った松の木に囲まれた小さな展望台があります。この歌碑はこの公園の隅にあります。この展望台からが眼下に遠賀川の河口(岡の港)が望め、万葉の時代に空模様を気にしながら命がけで海に出かけた船人の姿を想像するには絶好の場所です。芦屋の町内には今でも”岡のみなと”の名前が残る岡湊神社があります。

(9)福岡県

太宰府市

大宰府天満宮

よろづよに としはきふとも うめのはな たゆることなく 

さきわたるべし

 筑前介佐氏子首(巻五・830)
(1)大宰府天満宮
(2)大宰府天満宮・飛び梅
(3)大宰府天満宮の万葉歌碑
(4)万葉歌碑の解説板
【大宰府天満宮へのアクセス】
西鉄福岡より大牟田線急行で西鉄二日市にて太宰府線に乗り換え
計約25分で西鉄太宰府駅
徒歩約10分

これは、筑前介佐氏子首(つくしのみちのくちのすけさじのおびと)と言う人の歌ですが、”永遠に年月が経って行っても、梅の花は絶えることなく咲き続ける事であろう”と言う歌意で、作者がどんな人かは分からないが、職名からすると、筑前国守山上憶良の側近のものであると思われます。

(10)福岡県

福岡市・東区・志賀島

潮見公園

志賀の浦に 漁する海人 明けくれば 浦み漕ぐらし

かじの音きこゆ

 作者不詳(巻十五・3664番)
(1)潮見公園入り口
(2)潮見公園展望台から海の中道遠望
(3)潮見公園の万葉歌碑
(4)”志賀の浦に”の万葉歌碑
【潮見公園へのアクセス】

福岡天神→バス→志賀島:約1時間5分
博多埠頭→高速船→志賀島港:約
28分

歌意は”志賀の浦で漁する海人は夜が明けて来たので、岸をめぐって漕いでいるらしい、櫓の音が聞こえる”と言う意味で、今の自分たちの境遇を思い、望郷の念を歌っていると思われます。安倍継麻呂を大使とする遣新羅使一行のうちの誰かが詠んだもので作者は不詳です。潮見公園の展望台(島の最高所:標高176m)からは海の中道が見え、その向こうに福岡市の中心部も見えます。又、唐津から北九州の山並みも一望出来ます。紺碧の海は太古と変わらぬ様に見えます。遠い異郷を旅した万葉人もこの青い海に慰められたものと思われます。




(11)福岡県

太宰府市・都府楼跡

(都督府古址)
 

正月立ち 春の来たらば かくしこそ

梅を招きつつ 楽しき終へめ


大弐紀郷(だいにきのまえつきみ)(巻五・815番)
(1)大宰府都督府古址の石碑
(2)大宰府都府楼跡
(3)大宰府都府楼跡の万葉歌碑
(4)大弐紀卿の”正月立ち”の歌
【大宰府都督府古址へのアクセス】

西鉄都府楼前駅から

北東へ徒歩約15分

この歌は、大伴旅人の邸宅で詠んだ梅の歌三十二首の最初の歌です。これらの歌に先立って、序文が漢文で記載されています。原文: 梅花歌卅二首并序 / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以□(手偏+慮)情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠要旨: 天平二年正月十三日に太宰府の帥(そち)大伴旅人(おおとものたびと)さんの邸宅で宴会をしました。天気がよく、風も和らいできて梅は白く色づき、蘭が香っています。嶺には雲がかかって、松には霞がかかったように見え、山には霧がたちこめ、鳥は霧に迷う。庭にはが舞い、空には雁が帰ってゆく。空を屋根にし、地を座敷にしてひざを突き合わせて酒を交わす。楽しさに言葉さえ忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、好きなように過ごす。梅を詠んで情のありさまをしるしましょう。) ここからがこの歌です。(原文: 武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎岐都々 多努之岐乎倍米作者: 大弐紀卿(だいにきのまえつきみ)よみ: 正月(むつき)立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ、楽しみ終(を)へめ味: 正月になり春がやってきたら、こうの様に梅を見ながら楽しみましょうよ。大弐紀卿(ただいにきのまえつきみ): これは名前ではなく、このとき太宰府の大弐(位のひとつです)だった紀氏の人、という意味です。




(12)福岡県

太宰府市・宰府

大宰府天満宮境内


わが苑に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも



 大伴旅人(巻五・822番)
(1)九州国立博物館・大宰府側入口
(2)九州国立博物館・大宰府側入口(左に歌碑)
(3)”わが苑に・・・”の万葉歌碑
(4)”わが苑に・・・”の万葉歌碑
【大宰府天満宮へのアクセス】

西鉄太宰府駅から徒歩約5分

天平2年(730年)の正月13日、ここ大宰府で春をことほぎ、宴が催されました。場は大宰帥(だざいのそち)・旅人の邸宅です。中国渡来の梅を賞美し、それを題材に歌を詠もうという、後世「梅花の宴」と称される宴でした。この宴の席上、旅人が詠んだのがこの歌です。「わが園に梅の花が散る。いやこれは大空から雪が流れてくるのであろうか。」という意味です。梅の花を雪にたとえるのは中国の詩に多くの例があり、また雪が流れるという発想や言葉使いは中国の「流雪」という語を元にしたものだといわれ、この歌は旅人の中国的素養、漢詩文に造詣が深い文人的、知識人的な風雅をよく表しているといわれています。しかしまた、中国の文化を取り入れつつも漢詩ではなく日本文化である和歌を表現したところに、旅人をはじめとした万葉人の心がしのばれます。




(13)福岡県
大宰府市
都府楼跡

やすみししわご大君の食国(をすくに)は 倭(やまと)も此処も同じとそ思ふ


 大伴旅人(巻六・956番)
(1)大伴旅人の歌碑(大宰府・都府楼跡)
(2)大伴旅人の歌碑(大宰府・都府楼跡)
(3)大伴旅人の歌碑(大宰府・都府楼跡)
(4)歌碑の解説
【大宰府・都府楼跡へのアクセス】

西鉄天神大牟田線「都府楼前駅」下車

徒歩約15分

防この歌は大宰少弐の石川朝臣足人(たりひと)が大宰師(大宰府の長官)である大伴旅人(おほとものたびと)に詠い掛けた先の巻六(九五五)の歌に旅人が和えて詠んだ一首です。「大宮人の住む奈良の佐保の山を恋しく思いますか、貴方様は」との足人の歌に対して、「天皇の支配なさる土地は大和もここも同じだと思っています」と、少し悟ったような穏やかな返歌ですね。あるいは大宰府に赴任した直後の旅人には実際にこのような心も本心としてあったのかも知れません。ただ、この後、旅人と共に大宰府にやってきた妻が亡くなるなど辛い経験をしたことで、旅人の望郷の念は大きく膨らみ心の弱さを見せることも多かったようです。一方では「天皇の支配なさる土地は大和もここも同じだ」と悟りながらも、もう一方では奈良の京を恋しむ歌を詠んで酒に溺れる…そんな人間らしさを感じさせてくれるところが、この大伴旅人という人物の魅力なのだとも思います。




(14)福岡県

大宰府市

坂本八幡宮

わが岡にさ男鹿来鳴く 初萩の花嬬問ひに来鳴くさ男鹿


 大伴旅人(巻八・1541番)
(1)坂本八幡宮(大宰府)
(2)大伴旅人の歌碑(大宰府・坂本八幡宮)
(3)大伴旅人の歌碑(大宰府・坂本八幡宮)
(4)歌碑の解説
【坂本八幡宮へのアクセス】

西鉄天神大牟田線・「都府楼前駅」下車

徒歩約16分

ここの歌は太宰師(だざいのそち)の大伴旅人(おほとものたびと)が詠んだ二首の歌のうちのひとつ。
題詞に「太宰師」とあるので大宰府に赴任中の歌と思われます。「花妻(はなづま)」とは萩(はぎ)の花のことで、 鹿がいつも萩に寄り添うことから萩の花を鹿の妻だと見立ててこのように呼びます。この歌でも「わが家近くの岡に男鹿が来て鳴いているよ。初萩を花妻として言問いに来て鳴く男鹿よ」と、そんな花妻を求めて鳴く男鹿を詠った一首となっています。大伴旅人は大宰府に赴任してきてすぐに妻を亡くしていますが、あるいは妻問いに鳴く男鹿に自身の姿を重ねて見たのかも知れません。




(15)福岡県

大宰府市

都府楼跡裏・北側

 世の中は空しきものと知る時し いよゝますます悲しかりけり


 大伴旅人(巻五・793番)
(1)大伴旅人の歌碑(大宰府・都府楼跡裏・北側)
(2)大伴旅人の歌碑(大宰府・都府楼跡裏・北側)
(3)大伴旅人の歌碑(大宰府・都府楼跡裏・北側)
(4)大伴旅人の歌碑(大宰府・都府楼跡裏・北側)
【大宰府・都府楼跡へのアクセス】

西鉄天神大牟田線「都府楼前駅」下車

徒歩約15分

この歌は万葉集巻五の冒頭に置かれた一首で、大伴旅人(おほとものたびと)の作です。大伴旅人は万葉集の編者といわれる大伴家持の父で代々の武門の名家出身者として九州で隼人の反乱を鎮圧するなどの活躍をした傍ら、赴任先の大宰府で山上憶良(やまのうへのおくら)らと親交を持ち、奈良の都のそれとは一風違った後世に筑紫(つくし)歌壇と呼ばれる多彩な歌を残しています。大宰府は九州の筑前の国に設置されていた地方行政機関のことで、外交や防衛などを主な任務としその権限の大きさから「遠(とお)の朝廷(みかど)」とも呼ばれていました。「大宰師(だざいのそち)」はその最高責任者である長官です。大宰府のある筑紫は大陸との外交の窓口でもあり、新しい文化にもっとも早く触れる機会のあった土地でもあったことから大伴旅人や山上憶良たちのような独自の歌風が生まれたものと思われます。詞書きに凶問に報(こた)へる歌とありますが、これは天武天皇の皇女、田形皇女の訃報でしょうか。「報へる」とあるのは、訃報を知らせてくれた使者に対してこの歌を詠んだという意味でしょう。旅人は太宰師として筑紫に着任した翌年、その地で妻の大伴郎女を亡くしました。都から遠く離れた地で最愛の妻を亡くした喪失感は、旅人の心を想像以上に深く悲しませたようです。そして今また、都から届けられた天武天皇の皇女、田形皇女の訃報。「世の中は空しいものだと知識では知っていたけれど、こんなに不幸が続いて重なってくるとますます実感として思い知らされることだなあ。」との何のひねりもない歌の表現は、それゆえに旅人の実感がこもったもののように思われます。妻を亡くした悲しみに沈んでいるときに、さらに都から届いた訃報は、旅人のこころをさらに重いものにしたのでしょう。




(16)福岡県

大宰府市

水城跡

 凡(おお)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと 振りたき袖を忍びてあるかも
 娘子 児島(巻六・965)

ますらをと思へるわれや水くきの 水城のうえになみだ拭はむ
大伴旅人
(巻六・968番)
(1)娘子児島・大伴旅人の歌碑(大宰府・水城跡)
(2)娘子児島・大伴旅人の歌碑(大宰府・水城跡)
(3)娘子児島・大伴旅人の歌碑(大宰府・水城跡)
(4)歌碑の解説
【大宰府・水城跡へのアクセス】

西鉄天神大牟田線・下大利駅下車

徒歩約17分

大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人が、大納言に任じられて帰京する際、遊行女婦(うかれめ)・児島と詠み交わした歌です。遊行女婦とは、酒宴の席で歌や舞を披露して接待する女性を指します。都から大宰府へ赴任してきた旅人は、滞在中に愛妻を亡くし、悲しみにくれます。望郷の念や、亡くした妻への思慕を多く詠み残した旅人にとって、児島の存在はどれほどの支えであったでしょうか。
【銘文】
凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも    娘子児島
(普通の身分の方であったなら袖を振ってお別れするものを、恐れ多いので、振りたい袖を我慢しています。)
【銘文】
ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ    大納言大伴卿
(涙など流さないと思っていた私が、水城のほとりで涙を拭うことになるのだろうか。)
 二人の別れの場面で詠まれたこの歌は、旅人の出立が公的なものであり、周囲に官人がいるなかで、旅人と児島の間にある身分の隔たりが浮き彫りとなっている様子をうかがわせます。再びは逢えないかもしれないという、両者の悲しみが色濃く感じられるこの歌は『万葉集』巻6に収められています。




(17)福岡県

大宰府市

天満神社

 大野山霧立ち渡るわが嘆く 息嘯(おきそ)の風に霧立ちわたる

 山上憶良
(巻六・968番)
(1)天満神社(大宰府・国分)
(2)山上憶良の歌碑(大宰府・天満神社)
(3)山上憶良の歌碑(大宰府・天満神社)
(4)山上憶良の歌碑(大宰府・天満神社)
【大宰府・天満神社へのアクセス】

西鉄天神大牟田線・都府楼前駅下車

徒歩約10分

この歌も大伴旅人(おほとものたびと)の妻の死(巻五:七九三も参照)に対して山上憶良が贈った追悼歌で、巻五(七九四)の長歌に付けられた反歌のうちのひとつです。「大野山(おほのやま)」は福岡県太宰府市の「大城山(おおきやま)」のことで、大宰府の後ろにありこの山に旅人の妻は葬られたようです。そんな「妻の亡骸の眠る大野山に霧が立ち渡るよ。わたしの嘆く息の風によって霧が立ち渡るよ。」と、妻を亡くした嘆きのため息によって大野山に霧が立ち渡っているとその哀しさを詠っているのです。この歌は山上憶良が旅人の立場に立って詠んだものですが、この時期の旅人はきっと実際にため息ばかりついて妻を亡くした悲しさに気落ちする日々が続いていたのでしょうね。憶良の視点で詠われることによって、旅人の亡き妻を思う気持ちがよりいっそう引き立って感じられるそんな歌のようにも感じます。




(18)福岡県

大宰府市

学校院跡

長歌:子等を思ふ歌
瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ いづくより来たりしものそまなかひに もとなかかりて安眠(やすい)しなさぬ
山上憶良(巻五・802番)

反歌
銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも
 山上憶良
(巻五・803番)
(1)山上憶良の歌碑(大宰府・学校院跡)
(2)山上憶良の歌碑(大宰府・学校院跡)
(3)大宰府・学校院跡
(4)歌碑の解説
【大宰府・学校院跡へのアクセス】

西鉄天神大牟田線・都府楼前駅下車

徒歩約10分
【長歌】
この歌は山上憶良(やまのうへのおくら)の長歌です。人生派歌人、人情派歌人などといわれる憶良らしい、子供への愛情を詠った作で、次に紹介する巻五・803の反歌とともに非常に有名な歌です。
「瓜を食べていても今わが子供はどうしているだろうかと思い出させる。栗を食べればあの子にもこの栗をを食べさせてあげたいなあとまして思い出される。どんなに遠くにいても目に浮かんできて思い出され、安眠さえできない。」との子供への深い愛情は、今の世の人々にもすんなりと受け入れられる解説の必要すらないものです。万葉時代の人々も子供を思う気持ちはわれわれと何ら変わらないものだったのでしょう。憶良の歌はこの「子らを思へる歌」や「貧窮問答の歌」など、どれも万葉集の中で異彩を放っていますが、しかしその「調べ(リズム)」は万葉調の重奏な美しさを保っていることも注目すべき点かと思います。さほど長く無い長歌ですので、この歌もぜひ声に出して詠いあげてみると良いと思います。千数百年も前の山上憶良という人物のこころが今の時代にそのまま蘇ってくるような不思議な力をそこに感じるはずです。
【反歌】
この歌も山上憶良(やまのうへのおくら)の歌で、先に紹介した巻五・802の歌の反歌です。こちらも長歌のほうとともに非常に有名な歌です。銀も金も玉も、どんな宝であっても子供には敵わないとの思いは、子供を持つ親なら誰でも共感できる素直な気持ちです。山上憶良の歌は万葉集に多く採られていますが、じつはこれらの歌が詠まれた当時やその後の歴史の中でもほとんど注目されることはありませんでした。唯一、父親の旅人とともに憶良と親交のあった大伴家持が注目して万葉集の中に収録したぐらいのものです。しかし戦後の経済成長期の世相に合致したのか、そのころから一躍注目されるようになり、その後はこの「子らを思へる歌」なども学校の授業などでも必ず教わる歌となりました。そんな経緯も筑紫に赴任してからの晩年に多くの歌を詠んだ大器晩成型の、山上憶良らしいといえば、そう感じる事が出来ます。



(19)福岡県
嘉麻市
稲築公園

銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも


 山上憶良(巻五・803番)
(1)山上憶良の歌碑(嘉麻市・稲築公園)
(2)山上憶良の歌碑(嘉麻市・稲築公園)
(3)山上憶良の歌碑(嘉麻市・稲築公園)
(4)歌碑の解説
【嘉麻市・稲築公園へのアクセス】

JR下鴨生駅より車で約6分

この歌は山上憶良(やまのうへのおくら)の歌で、巻五(八〇二)の歌の反歌です。こちらも長歌のほうとともに非常に有名な歌ですので、一度ぐらい聞いたことがあるのではないでしょうか。銀も金も玉も、どんな宝であっても子供には敵わないとの思いは、子供を持つ親なら誰でも共感できる素直な気持ちだと思います。山上憶良の歌は万葉集に多く採られていますが、じつはこれらの歌が詠まれた当時やその後の歴史の中でもほとんど注目されることはありませんでした。唯一、父親の旅人とともに憶良と親交のあった大伴家持が注目して万葉集の中に収録したぐらいのものです。そんな憶良の歌ですが、しかし戦後の経済成長期の世相に合致したのか、そのころから一躍注目されるようになり、子供のころにはこの「子らを思へる歌」なども学校の授業などでも必ず教わる歌となりました。そんな経緯も筑紫に赴任してからの晩年に多くの歌を詠んだ大器晩成型の、山上憶良らしいといえばらしい気もします。




(20)福岡県

嘉麻市

鴨生公園

波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈
比等利美都ゝ夜 波流比久良佐武

春さればまづ咲く庭の梅の花独り見つつや春日暮(はるひくら)さむ

 山上憶良(巻五・818番)
(1)鴨生公園(嘉麻市)
(2)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生公園)犬養先生揮毫
(3)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生公園)犬養先生揮毫
(4)歌碑の解説
【鴨生公園へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約20分

この歌は巻五・815の歌などと同じく、大宰師の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で開かれた宴席で詠まれた「梅花(うめのはな)の歌」三十二首の歌のうちのひとつです。歌碑の筑前守山上丈夫(つくしのみちのくのかみやまのうへのだいぶ)は山上憶良(やまのうへのおくら)のことです。「見つつや」の「や」はこの場合は反語の助詞なので、「ひとりで見ることなどどうして出来ようか」という意味になります。つまりは「春になるとまず最初に咲く梅の花をわたしひとりで見て春の日を過ごすなどどうして出来ようか…」といった感じで、梅の花はひとりで楽しんでも意味がないのだとの、この宴の場の皆と過ごすひとときをよろこぶ内容となっています。たしかに、どんなに可憐な花でも自分ひとりで愛でていては寂しいだけという気持ちは現代人のわれわれにもよく理解できます。この憶良の歌も、そんな後の世に筑紫歌壇と呼ばれることになる共に楽しい時間を共有できる仲間のいる喜びを素直な表現で詠った一首のように思います。




(21)福岡県

嘉麻市

鴨生公園

 憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽

憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむそのかの母も吾を待つらむそ

 山上憶良(巻三・337番)
(1)鴨生公園(嘉麻市)
(2)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生公園)犬養先生揮毫
(3)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生公園)犬養先生揮毫
(4)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生公園)犬養先生揮毫
【鴨生公園へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約20分
この歌は山上憶良(やまのうへのおくら)の作で、宴の席を退出するときに詠んだ一首です。校の授業などでも必ずと言っていいほど学ぶ歌ですので、広く知られている歌です。山上憶良は大伴旅人(おほとものたびと)や山部赤人(やまべのあかひと)らとともに万葉の第三期を代表する歌人で、筑紫(つくし)の国の大宰府(だざいふ)に遣わされていたこともあり大宰府の長官でもあった大伴旅人などとともに後世に筑紫(つくし)歌壇などと呼ばれます。奈良の都などとは一風違った独自の歌の文化を築きました。大宰府のある筑紫は大陸との外交の窓口でもあり新しい文化にもっとも早く触れる機会のあった土地でもあったことから、その影響を受けて独自の歌風が生まれたものと思われます。山上憶良のこの歌も、人情派歌人とも呼ばれる憶良らしい子供や妻を気に掛けた人情味あふれる一首となっています。今の世でも宴会の途中での退席は周りへの遠慮もあってなかなかし辛いものですが、このように詠われてはみな憶良を笑顔で送り帰すしかなかったことでしょう。



(22)(23)福岡県

嘉麻市

鴨生公園


鴨生憶良苑

《山上憶良・嘉摩三部作》

ひさかたの天路(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに
(巻五・801番)

銀も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも
(巻五・803番)

常盤なすかくしもがもと思へども世の事なれば留(とど)みかねつも
(巻五・805番)

(1)鴨生公園(嘉麻市))
(2)山上憶良・嘉麻三部作歌碑(嘉麻市・鴨生公園)
(3)山上憶良・嘉麻三部作歌碑(嘉麻市・鴨生公園)
(4)山上憶良・嘉麻三部作歌碑(嘉麻市・鴨生公園)
(1)鴨生憶良苑(嘉麻市)) (2)鴨生憶良苑(嘉麻市))
(3)山上憶良・嘉麻三部作歌碑(嘉麻市・鴨生憶良苑) (4)山上憶良・嘉麻三部作歌碑(嘉麻市・鴨生憶良苑)
【鴨生公園へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約20分

【鴨生憶良苑へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約10分


《嘉摩三部作とは》
山上憶良は筑豊で「嘉摩三部作」を選定しました。嘉摩郡には郡家(郡役所)があり(今の嘉麻市・鴨生)、筑前国守として赴任してきた憶良は筑豊にも視察に来ていました。「嘉摩三部作」の詞書や後書きを読んでみると、三部作は巻五の800番から805番の長歌と反歌計六首で成り立っています。憶良はこの嘉麻市の郡役所で自分の歌を選定したのが、「神亀5年(728)7月21日」となっています。
この年に大伴旅人の妻が大宰府でなくなっています。そこで、憶良の三部作の直前の歌を見ると、同じ日付で憶良による「旅人の妻への挽歌」が載っています。憶良は7月21日に旅人の妻への挽歌を上奏し、みずからの過去の作品の中から、三部を選りすぐって書き残していたのです。嘉麻市に滞在していた憶良の元に「大宰帥大伴旅人の妻の死の知らせが」届き、その挽歌を創作したのだと思われます。この時、自分の過去の作品を見直して、創作のよすがとしたのだと思います。

【巻五・801番:ひさかたの・・・・】
この歌は巻五・800番の歌の反歌です。大陸文化の影響を受けて家族を捨てて宗教や観念的な世界に逃亡する者たちを諭した内容ですが、当時、これらの逃亡者が多く出て、それを戒める詔勅が出されることがたびたびありました。憶良のこれらの歌は、おなじく筑紫歌壇を形成した大伴旅人の歌に比べて生真面目さが前面に出た面白味のないものにも思えますが、これは憶良が地方官僚として筑紫を治める立場にあったことも影響しているものと思われます。大伴旅人の職である大宰師が新羅などの大陸からの脅威に対する防御などを受け持つ外交や軍事の専門職であったのに対して、山上憶良の筑前守の職は筑紫の地方の内政を担う仕事でした。(もともとは大宰府が地方内政も受け持っていましたが新羅との関係が緊張してきたために大宰府は外交に専念し、内政を担う役職として筑前守があらたに任命されました。山上憶良は初代の国守でした。)憶良のこれらの歌の内容が領民を諭すようなものになっているのも、そういう地方官としての立場が影響しているものと思われます。

【巻五・803番:銀も金も・・・・】
この歌は山上憶良(やまのうへのおくら)の歌で、巻五(八〇二)の歌の反歌です。こちらも長歌のほうとともに非常に有名な歌ですので、一度ぐらい聞いたことがあるのではないでしょうか。銀も金も玉も、どんな宝であっても子供には敵わないとの思いは、子供を持つ親なら誰でも共感できる素直な気持ちだと思います。山上憶良の歌は万葉集に多く採られていますが、じつはこれらの歌が詠まれた当時やその後の歴史の中でもほとんど注目されることはありませんでした。唯一、父親の旅人とともに憶良と親交のあった大伴家持が注目して万葉集の中に収録したぐらいのものです。そんな憶良の歌ですが、しかし戦後の経済成長期の世相に合致したのか、そのころから一躍注目されるようになり、子供のころにはこの「子らを思へる歌」なども学校の授業などでも必ず教わる歌となりました。そんな経緯も筑紫に赴任してからの晩年に多くの歌を詠んだ大器晩成型の、山上憶良らしいといえばらしい気もします。

【巻五・805番:常盤なす・・・・】
この歌は山上憶良(やまのうへのおくら)世の無常を嘆いて詠んだ歌で、先の巻五・604番の長歌に付けられた反歌です。左注の「撰定す」は「決定稿を作る」の意味です。「常盤(ときは)」は常に変わらない岩石のことです。そんな「岩石のごとく永久に変わらずありたいと思うけれどこの世の中のことは止めることが出来ないよ。」と、この反歌でも現実の世の止め難い無常さを詠った一首となっております。いつまでも変わらず若く長生きをしたいとの願いは、現代人だけでなく万葉人もやはり同じなのですね。逆にいえばそれが叶わないからこそ、今という時がより一層貴重にも感じられるのでしょう。山上憶良の歌はどこかこじんまりとして雄大さなどはないものの、それゆえに普通の人の普通の暮らしの大切さのようなものを読むものに悟らせてくれるようなそんな気がします。




(24)福岡県

嘉麻市

役所跡
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも


 山上憶良(巻五・803番) 
(1)郡役所跡石碑(嘉麻市・鴨生)
(2)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生・役所跡)
(3)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生・役所跡)
(4)山上憶良の歌碑解説(嘉麻市・鴨生・役所跡)
【郡役所跡へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約10分

この歌は山上憶良(やまのうへのおくら)の歌で、巻五(八〇二)の歌の反歌です。こちらも長歌のほうとともに非常に有名な歌ですので、一度ぐらい聞いたことがあるのではないでしょうか。銀も金も玉も、どんな宝であっても子供には敵わないとの思いは、子供を持つ親なら誰でも共感できる素直な気持ちだと思います。山上憶良の歌は万葉集に多く採られていますが、じつはこれらの歌が詠まれた当時やその後の歴史の中でもほとんど注目されることはありませんでした。唯一、父親の旅人とともに憶良と親交のあった大伴家持が注目して万葉集の中に収録したぐらいのものです。そんな憶良の歌ですが、しかし戦後の経済成長期の世相に合致したのか、そのころから一躍注目されるようになり、子供のころにはこの「子らを思へる歌」なども学校の授業などでも必ず教わる歌となりました。そんな経緯も筑紫に赴任してからの晩年に多くの歌を詠んだ大器晩成型の、山上憶良らしいといえばらしい気もします。




(25)福岡県

嘉麻市

鴨生憶良苑

秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花
山上憶良(巻八・1537番)

萩の花尾花葛花瞿麦(をばなくずばななでしこ)の花 女郎花(をみなへし)また藤袴(ふぢばかま)朝貌(あさがほ)の花 
 山上憶良
(巻八・1538番)

(1)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)
(2)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)
(3)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)犬養先生揮毫
(4)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生憶良苑)
【鴨生憶良苑へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約10分
【巻八・1537番:秋の野に・・・・
この歌は、山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)が秋の野の花を詠んだ二首のうちのひとつです。こちらの歌は「その一」とされており、歌の内容は「秋の野に咲いている花を指折って数を数えれば次の七種類の花が美しい」と、「その二」である次の巻八・1538番の歌に続く序のような内容となっています。そして、巻八(一五三八)の歌では「萩、尾花、葛花、撫子、女郎花、藤袴、朝顔」の七種類の野花を挙げて居り、これが現在にも秋の七草として伝わっています。もともとは七夕の夜に供える七草を選んだのだともいわれていますが、憶良もまさかこんな後の世まで自分の選んだ野花が伝えられるとはきっと夢にも思っていなかったと思います。
【巻八・1538番:萩の花・・・・】
この歌も先の巻八・1537番の歌と同じく、山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)が秋の野の花を詠んだ二首のうちのひとつです。巻八・1537番の歌では「秋の野に咲いている花を指折って数を数えれば次の七種類の花が美しい」と詠っていましたが、こちらの巻八・1538番の歌ではそれに継いで「萩の花、尾花、葛花、撫子の花 女郎花、また藤袴、朝顔の花」を秋の七草花として挙げています。憶良がこの歌で挙げた七草花は現在にも「秋の七草」として伝わっていますが、その独自の選花は興味深いものがあります。「萩(はぎ)」は万葉集にも四季の花すべてを通じてももっとも多く詠まれている花で、憶良もさすがにこの花は外すことが出来ないと思ったのでしょう。「尾花(をばな)」はススキのことで、花としては地味ですがたしかに秋を代表する植物と言えます。「葛(くず)花」はちょっと意外に感じられる方もいらっしゃるかも知れませんが、秋になると葛の葉の間から大きな赤紫の花を覗かせて咲く花で、この花を選んだ憶良の感性は見事だと思います。「撫子(なでしこ)」はカワラナデシコのことでこの花もまた、日本女性にも譬えられる可憐な花で、秋の七草の選定には欠かせません。おなじく、「女郎花(をみなへし)」も万葉集にも多く詠まれており、古来、日本人には馴染みの深い秋の花です。



(26)福岡県

嘉麻市

鴨生憶良苑

世間を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 山上憶良
(巻五・893番)

(1)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)
(2)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)
(3)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)犬養先生揮毫
(4)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生憶良苑)
【鴨生憶良苑へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約10分
この歌も山上憶良(やまのうへのおくら)の作で、巻五・892番の「貧窮問答の歌」の長歌につけられた反歌です。長歌で貧しき民の現状をつぶさに訴えたあと、この反歌では「どんなに苦しくても飛び立って逃げることも出来ない。鳥ではないのだから。」と、ここでも民の側に立ってその苦しさを嘆き訴えています。朝廷の地方役人である山上憶良の立場でこんな歌を詠んで大丈夫なのかちょっと心配にもなりますが、それほどに訴えなければならない酷い現状が地方の民にはあったということなのかも知れません。まあ、読みようによってはそれゆえに「皆いまある生業で一生懸命に頑張るしかないのだ」との民を励ます歌と取れなくはありませんが、この歌も長歌とともに憶良という人物の目に映っていたものがどんなものであったのかをよく伝えてくれる一首のように思います。



(27)福岡県

嘉麻市

鴨生憶良苑

牽牛(ひこぼし)の嬬(つま)迎へ船(ぶね)漕ぎ出(づ)らし天(あま)の
川原(かはら)に霧の立てるは

 山上憶良
(巻八・1527番)

(1)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)
(2)鴨生憶良苑の由来(嘉麻市・鴨生)
(3)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生憶良苑)
(4)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生憶良苑)
【鴨生憶良苑へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約10分
この歌も、山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)が七夕を詠んだ十二首の歌のうちのひとつです。ここから三首の歌には年記などが記されていませんが、あるいは大伴旅人が大宰府から奈良の京に帰った後の天平三年の七夕に憶良が独泳で詠んだものかもしれません。歌の内容は「牽牛が妻を迎える船を漕ぎ出すらしい。天の川原に霧が立っているのは」と、天の川原に霧が立っていることから牽牛が船を出すのだと推察した一首となっています。「妻を迎える船」とあるのは、現代の日本の七夕伝説とは逆に、中国の七夕の風習では織姫が牽牛に逢いに行くとされているからなのでしょう。歌の主体は、作者である山上憶良自身などの牽牛や織女とは別の第三者の立場で詠まれたものです。そんな幻想的な霧の漂う中を、牽牛と織女を乗せた船が天の川を渡ってゆく光景が目に浮かんでくるようで、この歌もまた七夕を詠って魅力ある一首よ言えます。



(28)福岡県

嘉麻市

鴨生憶良苑

吾が主の御霊給ひて春さらば奈良の都に召上げ給はね

 山上憶良
(巻五・882番)

(1)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)
(2)鴨生憶良苑(嘉麻市・鴨生)犬養先生揮毫
(3)山上憶良の歌碑(嘉麻市・鴨生憶良苑)
(4)鴨生憶良苑の由来(嘉麻市・鴨生)
【鴨生憶良苑へのアクセス】

JR下鴨生駅から徒歩約10分
この歌も巻五・880番の歌などと同じく、大宰師の任を終えて奈良の都へ帰ることになった大伴旅人(おほとものたびと)に、山上憶良(やまのうへのおくら)が贈った三首の歌のうちのひとつです。「あなたさまがお心を掛けてくださって春になったなら奈良の都にわたしを召し上げてくださいませ」と、奈良の都に帰ってゆく旅人に自身の帰京の斡旋を訴えた一首となっています。まあ、大納言に昇進して都へ帰るといっても病を得た高齢の旅人が朝廷の人事に口を出せるほどの力があったとは思えず、またこの頃は藤原四兄弟の力が絶世の頃ですし憶良も本気で当てにしていたのかどうかはわかりませんが、旅人とふたりまた奈良の都で逢いたいとの思いもあったのでしょう。つまりはこれらの一連の歌は都へと帰ってゆく旅人に「都にお帰りになったなら私も帰国が叶うように計らってください」とのお願いをしているわけですが、それを短歌の形で伝えるところがなんとも憶良らしくて面白いです。ちなみに憶良の帰京は旅人が都へ帰った二年後に叶ったようですが、その前年に旅人は病で亡くなっており二人の都での再会はなかったようです。憶良も旅人も、最期に一度ぐらい奈良の都の梅を眺めながらふたりで酒を交してみたかったでしょう。



(29)北九州市

八幡西区

岡田神社

大君の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通(がよ)ふ島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思ほゆ
柿本人麻呂(巻三・304番)

ほととぎす 飛幡(とばた)の浦にしく浪の しばしば君を見むよしもがも
 作者不詳
(巻十二・3165番)

天ぎらひ日方吹くらし 水くさの 岡の水門に 波立ちわたるぎらひ
作者不詳(巻七・1231番)

(1)岡田神社(北九州・八幡西区)
(2)柿本人麻呂・作者不詳二首万葉歌碑
(3)柿本人麻呂の歌碑
(4)作者不詳二首歌碑
【岡田神社へのアクセス】

JR黒崎駅から徒歩10分
【巻三・304番:大君の・・・・
この歌も先の巻三・303番の歌と同じく、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が筑紫の国に下向するときに詠んだ二首の歌のうちのひとつです。まあ、こちらの歌も丹比笠麿(たぢひのかさまろ)の歌と混同されている可能性があり、実際に柿本人麿が詠んだものかははっきりしないようです。先の歌と同じく一応、ここでは題詞通りに人麿の歌と解釈して紹介しておきます。「遠(とほ)の朝廷(みかど)」は、「地方出向の朝廷」の意味でおもに筑紫にある大宰府のことをこう言いました。「神代(かみよ)」はこの場合は伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)によって国が生み出された「国生(くにう)み神話」のことを念頭に置いての表現です。そんな「大君の遠い朝廷として皆が通う島山を見ると神代の昔のことが思えるなあ。」と、神話の時代からの由緒ある土地である筑紫島(九州)を讃えた土地讃めの歌です。この歌もまた、土地讃めの歌を捧げて筑紫の土地の神の加護を得ることで、船旅の不安な心を少しでも鎮めようとした言霊の一首なのでしょう。
【巻十二・3165番:ほととぎす・・・・
歌意はとばたの浦に寄せては返す波のように、しばしば君に会う手立てがほしいと言う物です。奈良時代の戸畑は、白砂に根上り松が群生する美しい浜辺だったというが、今はまったくその面影はありません。同じ歌の歌碑が新勝山公園にもあります。新勝山公園は大岩に刻まれた歌碑です。
【巻七・1231番:天ぎらひ・・・・
 空には霧が立ちこめて、日方の風が吹くようだ。岡の河口の湊では、あんなに波が立っている。”水茎の”は枕詞、”天霧らひ”は空一面に霧がかかって、”日方”は風の名、”岡の水門”は福岡県遠賀郡芦屋町の遠賀川河口の湊である。  



(30)北九州市

小倉北区

貴布彌神社

(31)北九州市

小倉北区

万葉の庭

豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ

 
作者不詳(巻十二・3219番)

(1)小倉北区・貴布彌神社
(2)作者不詳・万葉歌碑(小倉北区・貴布彌神社)
(3)作者不詳・万葉歌碑(小倉北区・貴布彌神社)

(4)歌碑の解説
(1)万葉の庭(小倉北区・新勝山公園) (2)作者不詳・万葉歌碑(小倉北区・新勝山公園)
(3)作者不詳・万葉歌碑(小倉北区・新勝山公園) (4)作者不詳・万葉歌碑(小倉北区・新勝山公園)

【貴布彌神社へのアクセス】

JR小倉駅から徒歩約10分


【万葉の庭へのアクセス】

JR小倉駅から徒歩約15分

歌意は豊前の国の企救の長浜を歩き続け、日が暮れてしまえば、そぞろにいとしい人のことが思われると言う物です。企救は現在の北九州市あたりの昔の地名で、明治以降も行政区画として企救郡があったり、町制施行後に企救町があったが、第二次大戦後に小倉市に編入されて消滅しました。関門海峡に突き出た企救半島や企救山地にその名が残っています。歌枕としては、企救の長浜、企救の高浜として、現在の小倉から門司にかけての海岸が詠まれました。長い砂浜海岸が続き、根上がりの松があって、さぞかし風光明媚な情景が広がっていたことと思われます。小倉北区長浜町の貴布彌神社に歌碑がありますが、同じ歌の歌碑が小倉北区城内の新勝山公園にもあります。



(32)北九州市

小倉北区

万葉の庭
ほととぎす 飛幡(とばた)の浦にしく浪の しばしば君を見むよしもがも

 作者不詳
(巻十二・3165番)
(1)万葉の庭(小倉北区・新勝山公園)
(2)作者不詳・万葉歌碑
(3)作者不詳・万葉歌碑
(4)作者不詳・万葉歌碑

【万葉の庭へのアクセス】

JR小倉駅から徒歩約15分
歌意はとばたの浦に寄せては返す波のように、しばしば君に会う手立てがほしいと言う物です。奈良時代の戸畑は、白砂に根上り松が群生する美しい浜辺だったというが、今はまったくその面影はありません。同じ歌の歌碑が新勝山公園にもあります。新勝山公園は大岩に刻まれた歌碑です。



(33)北九州市

小倉北区

万葉の庭

豊国の企救の浜松ねもころになにしか妹に相言ひそめけむ

 作者不詳
(巻十二・3130番)

(1))万葉の庭(小倉北区・新勝山公園)
(2)作者不詳・万葉歌碑
(3)作者不詳・万葉歌碑
(4)作者不詳・万葉歌碑
【万葉の庭へのアクセス】

JR小倉駅から徒歩約15分
こ歌意は単純で、豊国の企救の浜松の根ねんごろにどうしてあなたに話かけたのだろうと言うものです。”豊国”は九州北東部の古名、”企救”は豊国にあった地名で福岡県北九州市です。旅先で出会った女性に話しかけたことで、親しくって恋してしまったけど旅の恋なので、旅立ちと共にお別れしなくちゃならないのに恋しい気持ちになってしまってるあるいは、別れたあとも、忘れられなくて、恋しい気持ちをひきづっていてあの時、話しかけなきゃよかった、声なんかかけなきゃよかったと後悔しているようです。



(34)北九州市

小倉北区

万葉の庭

豊国の 企救の浜辺の 真砂地 真直にしあらば 何か嘆かむ

 作者不詳
(巻七・1393番)

(1)作者不詳・万葉歌碑
(2)作者不詳・万葉歌碑
(3)作者不詳・万葉歌碑
(4)作者不詳・万葉歌碑

【万葉の庭へのアクセス】

JR小倉駅から徒歩約15分
この歌の歌意は豊国の企救の浜辺の細かい砂地、その砂地が、名のとおり平らかであったなら、何を嘆くことなどありましょうと言うものです。企救は現在の北九州市あたりの昔の地名で、明治以降も行政区画として企救郡があったり、町制施行後に企救町があったが、第二次大戦後に小倉市に編入されて消滅。
関門海峡に突き出た企救半島や企救山地にその名を留めています。歌枕としては、企救の長浜、企救の高浜として、現在の小倉から門司にかけての海岸が詠まれました。長い砂浜海岸が続き、根上がりの松があって、さぞかし風光明媚な情景が広がっていたものと思われます。




(35)北九州市

小倉北区

万葉の庭

豊国の 企救の高浜 高々に 君待つ夜らは さ夜更けにけり

 作者不詳
(巻一・51番)

(1)万葉の庭(小倉北区・新勝山公園)
(2)作者不詳・万葉歌碑
(3)作者不詳・万葉歌碑
(4)作者不詳・万葉歌碑

【万葉の庭へのアクセス】

JR小倉駅から徒歩約15分
この歌の歌意は豊国の企救の高浜のように、高まる気持ちであなたを待っている夜は更けてしまったと言うものです。万葉の昔、門司の大里から小倉にかけての海岸は、企救の長浜または高浜と呼ばれ、戸畑の海岸は飛幡の浦と呼ばれていました。白砂の海岸に美しい根上がり松が群生し遠く太宰府に往来する人々の心を慰めたと思われます。昭和46年いにしえの面影をしのび万葉集より、この地にゆかりのある歌6首を選び「万葉の庭」が建立されました。



(36)北九州市

小倉北区

万葉の庭

豊国の 企救の池なる 菱のうれを 摘むとや妹が み袖濡れけむ

 作者不詳
(巻十六・3876番)

(1)万葉の庭(小倉北区・新勝山公園)
(2))作者不詳・万葉歌碑
(3))作者不詳・万葉歌碑
(4))作者不詳・万葉歌碑

【万葉の庭へのアクセス】

JR小倉駅から徒歩約15分
この歌の歌意は豊国(とよくに)の企救(きく)の池にある菱(ひし)の先を摘もうとして、あなたは袖を濡らしたのですねと言うものです。豊国(とよくに)は、現在の福岡県・東部と大分県を含む地域と考えられています。企救(きく)は、現在の福岡県北九州市小倉北区・小倉南区・門司区にあたります。企救(きく)の池がどこなのかはよくわかっていません。万葉の昔、門司の大里から小倉にかけての海岸は、企救の長浜または高浜と呼ばれ、戸畑の海岸は飛幡の浦と呼ばれていました。
 白砂の海岸に美しい根上がり松が群生し遠く太宰府に往来する人々の心を慰めたと思われます。
 昭和46年いにしえの面影をしのび万葉集より、この地にゆかりのある歌6首を選び「万葉の庭」が建立されました。