(1)今月の万葉秀歌訪問

縦方向にスクロールしてご覧下さい。(6首)

(1)静岡県
富士市・前田
田子の浦港近辺

田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にぞ 富士の高嶺に
雪は降りける
 

 山部赤人(巻三・318番)
(1)田子の浦港の歌碑
(2)田子の浦遠望
(3)田子の浦より富士遠望
(4)富士川鉄橋より雪の富士遠望
【田子の浦港へのアクセス】

JR富士駅よりバス『田子の浦港』まで約30分

新幹線新富士駅よりタクシー10分
この歌は山部赤人の有名な富士山長歌の反歌でこの前の巻3−317で”天地(あめつち)の分れし時ゆ神さびて・・・・”の歌に続くものである。”田子の浦ゆ”の”ゆ”は経過点を表す。万葉時代の田子の浦は、現在とは違って、興津町の東、薩た山の麓から倉沢、由比、蒲原を経て吹上ノ浜に至る弓状をなす入り海をさした様です。その辺りは近くの山に遮られて富士山は見え難くく、この歌は、富士の見えない場所を通って、視界のきく場所に出た瞬間に見出された、純白の雪に覆われた富士の高嶺に対する感動を歌い上げたものと言われています。



(2)名古屋市

南区楠町

村上社

  桜田へ たづなきわたる あゆちがた しほひにけらし

たづなきわたる


 高市黒人(巻三・271番)
(1)名古屋市・村上社正面
(2)村上社境内
(3)高市黒人歌碑(揮毫は久松潜一)
(4)境内の大クスの木(樹齢約千年)
【村上社へのアクセス】

名古屋市営地下鉄桜通線”鶴里駅”

より南へ500m
この歌は、「万葉集」巻三の「雑歌」の(271)に「桜田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良之鶴鳴渡」と載っている歌である。意味は、「桜の田の方へ鶴が鳴いて渡っていく。あゆち潟が干いたらしい。鶴が鳴いて渡っていく」というものである。この歌の「桜」も「年魚市潟」も、現在の名古屋市南区内にある地名で、尾張で詠まれた歌として異論のないところであろう。松田好夫博士は、「桜」は名古屋市南区桜本町、桜台町、桜田町、西桜町一帯「旧愛知郡桜村」だけでなく、この笠寺台地全部をいったのであろうと「東海の万葉地理 尾張偏」に表されている。



(3)静岡県

浜松市

遠州灘海浜公園

等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比弖之阿良婆

 巳等母加由波牟

(遠江 白羽の磯と にへの浦と あひてしあらば 言も通はむ) 

 防人歌(巻二十・4324番)
(1)浜松市・遠州灘海浜公園(黒い点は凧)
(2)浜松市・遠州灘海浜公園の万葉歌碑
(3)浜松市・遠州灘海浜公園の万葉歌碑
(4)万葉歌碑の説明文
【浜松市・海浜公園へのアクセス】

JR浜松駅→遠鉄バス三島江之島

線で15分、バス停:県立海浜公園
 
下車、徒歩約3分
万葉集で遠江を歌ったと思われる歌は18〜21首あり、それらは国司としてこの地に在任した人が詠んだ歌や、東国への旅の途中で詠んだ歌など、いずれの歌にもいにしえの人々の思いがこめられています。この歌も”故国遠江の白羽(しるは)の磯と尓閇(にへ)の浦とが隣り合っている様に、家族のいる故郷とこの地が隔たっていなければ、心で思うだけでなく、便りも出来るものを。”と言う遠い地へ単身赴任させられた防人が、家族と離れて暮らす寂しさを詠んだ歌である。



(4)徳島県

徳島市・眉山町

眉山(びざん)
 

如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛

(眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 

かけて漕ぐ舟 とまり知らずも)

  船王(巻六・998番)
(1)吉野川北岸より眉山遠望
(2)眉山ロープウエイ
(3)眉山山頂の万葉歌碑
(4)船王の歌碑(犬養孝先生揮毫)
【眉山へのアクセス】

JR徳島駅から徒歩10分眉山ロープウェイ山麓駅
山麓駅からロープウェイ約6分「山頂駅」下車
「眉山」と書いて「びざん」と読みます。文字の見た目も言葉の響きも美しい「眉山」という名前は、どういう意味がこめられているのでしょうか?はるか天平時代、淳仁(じゅんにん)天皇の兄にあたる船王(ふねのおおきみ)が、「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山 かけて漕ぐ舟とまり知らずも」という歌を万葉集に残しています。天平6年(734年)春三月に、聖武天皇の難波行幸にお供したときに詠んだものといわれ、眉のように雲のあるところに見える阿波の山とは、眉山を指していると言われています。古く万葉の時代から、美しい稜線が女性の眉の形のようだといわれ、多くの人々の心にそのシルエットを印象づけてきました。



(5)静岡県
静岡市

清水区・草薙

水鳥の たち急ぎに ふぼに物言ず来にて 今ぞ悔しき


 有度部牛麻呂(巻二十・4337番)
(1)日本武尊銅像(日本平)
(2)有度部牛麻呂の歌碑(日本平)
(3)有度部牛麻呂の歌碑(日本平)
(4)歌の英訳版歌碑
【日本平へのアクセス】

JR静岡駅よりバスで約40分
(JR静岡駅11番バス停?県営駐車場・日本平ホテル入口
)

防人として故郷を旅たつにあたり、両親への別離と感謝の気持ちを詠んだものとされていますが、防人としての急な出立を余儀なくされた作者の有度部牛麻呂の心情が伝わって来ます。慌しい中、父母とゆっくり別れの言葉を交わすことが出来ず、心残りのまま旅立ったものと見られます。 行先は九州の大宰府。任務は3年と決められていましたが、再び故郷に戻ることの出来ない者も多くいました。野宿を余儀なくされ食べ物すら十分でないひもじい過酷な旅です。しかし、それ以上に父母と二度と会えなくなる辛さが身を切るものだったと思われます。牛麻呂が暮らしていたとされる有度山(山頂を「日本平」と称される)の一角に、富士山を背に歌碑が設置されていますが、この歌碑は82歳だった書家の青山於?が戦争で亡くなった息子を偲んで、大石徳四郎と共に建立されたものであり、歌碑の背には以下のように記されています。「祖国防衛の任についた有度部牛麻呂の哀歌と、その父母の愛情は千古変わることなく、先の大東亜戦争(太平洋戦争)に愛子をささげた私共を含めて、幾百万の遺族の心に通うものがあろう。」と。




(6)静岡県

静岡市清水区真砂町

JR清水駅前静岡県

たちばなの みおりの里に 父おきて 道のなかては

行きかてぬかも


 丈部足麻呂(巻二十・4341番)
(1)JR清水駅
(2)JR清水駅前万葉歌碑
(3)丈部足麻呂の万葉歌碑
(4)歌碑の解説
【JR清水駅へのアクセス】

JR静岡駅より
東海道本線・沼津方面行で
約10分

この歌は万葉集に収められた防人の歌の一首です。歌意は”橘の美袁利の里に父を残しておいて、長い道のりは行きかねることよ ”で、「橘の美袁利」は静岡市の当時の地名と見られます。この歌は現在、清水市立花の里や、JR清水駅の前に万葉歌碑として建立され、父を思う心情が伝えられています。原文の「行きかての」の「の」は打ち消しの「ぬ」の方言と見られ、通常は「行きかてぬ」と紹介されています。道の長道は「遠い道のり」の意味で、長道は万葉集各解釈本で「ナカチ」「ナガヂ」「ナカテ」という三通りに読まれているそうです。