桜花礼賛の目次



005 花と言えば”桜”をさす様になったのは何時ごろ?
万葉集では梅を詠んだ歌が約120首に対して、桜を詠んだ歌は約40首で圧倒的に梅が優勢です。この当時は中国から伝わった梅を庭に植えるのが貴族達のステータス・シンボルであった様です。また当時桜と言えば殆どが山桜を指していました。古典において、「花」と言えば「梅」から「桜」に変わったのは、平安時代の「古今集」の頃で、古今集では梅を詠んだ歌約20首に対して、桜は70首で逆転しています。しかもその中には、単に「花」と表現されている一群があって、それ以来、単に「花」といえば桜を指すようになった様です。その後の西行法師西行法師(1118〜1190)の影響も大きく、山家集には有名な歌”願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃”はこよなく桜を愛した西行法師らしい歌です。また有名な「伊勢物語」の中で、文徳天皇の皇子の惟喬親王は水無瀬(現在の大阪府三島郡島本町)の別荘に度々、馬頭(馬を司る役所の長官)であった在原業平など、気のあった仲間を誘って、鷹狩に出かけられました。ある年の春、水無瀬の対岸の交野という所の桜が見事に咲いていたので、一行は狩を中止して、馬をおり、桜の木の下で、宴会を始めてしまいました。宴会の余興に誰だか名前を忘れたが一首を詠んだと言います。これが有名な” 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし”です。この歌を古今和歌集では在原業平朝臣の歌としています。いずれにしても、平安時代には桜が主役の座につき、花と言えば桜を指す場合も出てきた様です。