マクロの世界

(03)京・祇園祭
(日本三大祭)(京都三大祭)
(日本三大曳山祭)(日本三大山車祭)
開催場所:京都市 開催日程:7月14〜16日(毎年)

園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれていました。貞観年間(9世紀)より続く、京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭ですが、そのなかでも「宵山」(前祭7月14日〜16日・後祭7月21〜23日)、「山鉾巡行」(前祭7月17日・後祭7月24日)、「神輿渡御」(7月17日)などがハイライトとなっています。宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名もあります。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、動く美術館とも例えられます。祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大山車祭(他は前述の高山祭、滋賀県長浜市の長浜曳山祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りです。
疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行いました。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念しました。869年(貞観11年)、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来の化身・牛頭天王を祀り御霊会を執り行ったのがその起源であると言われています。祇園祭が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したことやその原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などによります。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされています。これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていました。中世の一時期、八坂神社は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期がありまし。この時期、八坂神社は日吉神社の末社とされ、日吉神社の山王祭が行われない時に祇園祭が中止になったり延期になる原因となりました。さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになりました。その後、応仁の乱での30年の中断や第二次世界大戦などでの中断はあるものの、現在でも続いており、1000年を超える歴史を有しています。なお、名称は明治維新による神仏分離令の影響で「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」より「祇園祭」と仏教色が排除されたものとなっています。

室町時代以来、園祭のクライマックスは山鉾巡行でした、現在ではいわば「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まり盛り上がりを見せるため、園祭といえば宵山を先に思い描く人も多いと思われます。ちなみに諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」と言いますが、これは園祭の大一番である山鉾巡行・神幸祭神輿渡御が終わり、この後の園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされます。また、園祭は1966年(昭和41年)まで「前祭」(さきまつり、7月17日)と「後祭」(あとまつり、7月24日)の2回に分けて山鉾巡行を行っていた経緯があり、「前祭」では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、「後祭」では山鉾の数が少なく、小規模であることから、この諺が言われるようになったという説もあります。なお、後祭は後述の通り2014年から復活計画があります。

祇園祭(2003・06・07・12年撮影)