”第九”知っとこ豆知識


(001)第九の初演時にはベートーヴェンは殆ど耳が聞こえなかった

初演奏会場と初演日、そしてソリスト陣や大オーケストラと合唱などについての準備は、1824年の年頭から始まっていました。一時はベルリン初演などのベートーヴェンの希望なども出て、ウィーンの音楽愛好家たちをあわてさせる経緯もりましたが、ウィーン上演を求める長大な請願書がベートーヴェンを動かし、1824年5月7日にウィーン市ケルントナートーア劇場(宮廷劇場)で初演されることになりました。満員の聴衆を集め、熱狂的な支持の中での演奏会は、前半を「献堂式」序曲と『ミサ・ソレムニス』の3章、後半が『第九』というプログラムでした。曲目1:序曲 「献堂式」作品124
曲目2:三つの大讃歌 「ミサ・ソレムニス」作品123の「キリエ」「クレド」「アニュスディ」
曲目3:大交響曲「第9交響曲二短調」作品125
   総指揮:ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン /総指揮楽長:ウムラウフ
    /ソリスト:ゾンターク(S)、ウンガー(A)、ハインツィンガー(T)、ザイベルト(B)
    /合唱:ウィーン楽友協会 /管弦楽指導:シュパンツィク
自ら指揮棒を振ったベートーヴェンの耳は、既に全く音を感じることができなくなっていたため、客席からの割れるような拍手に気付かず、客席に背を向けたままであったという話はあまりにも有名です。多数の聴衆が泣き出し、そして5度の拍手を止めさせるため警官が入ったとも伝えられています。もはや今までのように苦難に押しつぶされそうな彼ではなく、自ら勝利を勝ち取った勝者の姿がそこにありました。しかし、彼は演奏会後に感動で気絶してしまいます。シントラーの家まで運ばれた彼は、着の身着のまま次ぐ日の昼過ぎまで眠ってしまったとのことです。この曲の有名な「歓喜頌歌」が演奏されるのは、70分にもわたるこの曲のほんの一部(最後の20分)ですが、それまでの曲は「歓喜頌歌」が現れるための導入部に過ぎないと考えるようでは、あまりに悲しいと思います。ベートーヴェンは、『第九』初演直後にも「第4楽章を楽器のみのものに取り替え、合唱付のものは次に回そう」と語ったと言われています。色々と含みが感じられる言葉ですが、ベートーヴェン自身もこの曲をイギリスへ持参する約束の2曲の交響曲として、再構築の可能性を考えていたのではないだろうかとも解釈できます。実際この曲は、奇抜な第4楽章の影に隠れて、前半の3つの楽章が目立たなくなってしまっていますが、特に第1楽章や第2楽章は、古典的な交響曲として比類ないほどに高い完成度を持っていると言えます。ベートーヴェンにもう一度この曲をいじるだけの時間があったら、純粋な器楽の交響曲とオーケストラと合唱による壮大なロマン的交響曲(いわゆる第9番と第10番のセットの交響曲として)の二つに作り替えていたのかもしれません。

歌詞付き自筆楽譜(第2主題) ケルントナートア劇場 第4楽章の自筆草稿