”第九”知っとこ豆知識


(002)第九の日本初演は1918年に徳島のドイツ捕虜集要所で行われた!
「おお友よ、こんな響きではない!もっと快く、もっと歓びをこめて歌おうではないか」、バリトンの声が高らかに響いた。肩をすりあわせて坐っていた、200人余りの聴衆は威儀を正した。第4楽章の合唱、「歓喜の歌」の始まりである。1918年6月1日土曜日の夜7時過ぎ、現在の鳴門市大麻町にあった板東ドイツ兵収容所でのことである。
「バラッケ」と呼ばれる下士官・兵卒用宿舎1号棟の、東半分に設けられた「講堂」は狭かった。縦35メートル、横7.4メートルほどで約260平方メートル。舞台には45人のオーケストラと80人の合唱団、4人のソリストと指揮者を加えると、130人がひしめいている。残された客席は、200平方メートルたらず、畳120枚ほどである。それでも席をとれた人は、幸せだった。窓の外には、会場に入れなかった数百の俘虜が耳をすましていた。内外の聴衆は合唱にうなずき、リズムをとりあった。すでに俘虜生活3年半を経た彼らにとって、「歓喜の歌」はみずからを慰め、仲間との一体感をはぐくむ貴重な手だてだったのである。
板東での、「第九」日本初演の様子を追ってみるとこんな風になろうか。
ではなぜドイツ兵は、日本で俘虜生活を送ることになったのだろう。1914年7月に起こった第1次世界大戦の余波は、日本にも及んだ。当時日本は、イギリスと同盟を結んでいた。イギリスはドイツとともに山東半島に租借地を持っていたが、大戦が始まるとドイツはイギリスの艦船を攻撃してきた。イギリスは日本に保護を求め、かねてから大陸への進出を望んでいた日本は、ドイツ側の拠点青島に3萬の兵を送った。守るドイツ側は3分の1の志願兵を含む5千、2ヶ月で決着が付き、4、700名ほどが俘虜として日本に送られてきた。
当初ドイツ兵は東京から熊本の12ヶ所に収容されたが、施設が古く狭いこともあって不満が絶えず、名古屋と久留米は同じ地区内だったが、習志野、青野ヶ原(姫路の北)、似島(広島湾内)、板東を加えた6ヶ所に新施設が作られた。板東収容所は、四国の徳島、松山、丸亀を統合し、後に久留米の90名を加えて最大1,028名を収容した。板東はドイツ兵俘虜の間で「模範収容所」と呼ばれていたが、その最大の理由は徳島以来の松江所長の「敗者をいたわる」管理方針にあった。松江自身が賊軍の汚名を負わされた会津の出身だっただけに、「彼らも命がけで国のために戦ったのだから」が口癖だったという。明治以降「不平等条約」の解消を国是としてきた政府が、国際的信頼を得ようと「戦争条約」を守ってきたことも支えとなった。松江はそうした国の基本方針をも盾にとり、時には上層部と争ってでも、俘虜にできるかぎりの自由を保証しようと努めた。その成果は俘虜の一人が残した、「世界のどこに、バンドーのような収容所があったろうか。世界のどこに、マツエ大佐のような収容所長がいたろうか」という言葉に集約されている。こうした日本側の努力にドイツ兵も応え、俘虜生活を無駄に過ごすまいとさまざま活動に励んだ。音楽ばかりでなく、演劇、講演・学習、新聞・プログラムの印刷などの文化活動、活発なスポーツ活動、さらには日本人を対象とした農業、畜産、製パン、音楽の指導等々、これには「ドイツ橋」「船本牧舎」作りなどの奉仕活動まで加わった。ちなみに「第九」の全曲演奏はこの時が初めてだが、「歓喜の歌」の部分だけは徳島でも、板東に移ってからも合奏されている。演奏はいずれも「徳島オーケストラ」、指揮者はヘルマン・ハンゼンである。このオーケストラは、後に「M.A.K.オーケストラ」と名を改める。「M.A.K.」とは「膠州海軍砲兵大隊」の略称で、ハンゼンはもともとその軍楽隊の指揮者で、「一等軍楽兵曹(Oberhoboistenmaat)」がその肩書きである。
「徳島オーケストラ」は25名ほどだったが、青島での仲間も多く楽器や楽譜も揃っていた。このオーケストラは徳島時代にすでに50回ものコンサートを開いており、その実績が板東に引き継がれ、「エンゲル・オーケストラ」や「シュルツ吹奏楽団」と並んで、板東の音楽活動を支えていくことになるのである。
最近、松平健主演で公開された映画”バルトの楽園”はこの日本初の第九演奏の物語である。
【ハンゼン指揮の徳島オーケストラと合唱団】 【映画”バルトの楽園”】